伊藤人誉(いとう ひとよ)の短篇「穴の底」を読んだ感想
伊藤人誉著「穴の底」が収録されている「名短編ほりだしもの」。 |
穴の底に転落する
ちくま文庫の「名短編ほりだしもの」を、ときどき読んでいる。著者は、伊藤人誉(いとう ひとよ)という作家。
夏のある日、登山道からかなり外れた林の中で、男(登山者)が不思議な穴を見つける。
それは直径5mぐらいの丸い穴で、草地を縁にして、すり鉢状にくぼんでいる。
すり鉢のくぼみの中央に、さらに直径2mぐらいの深い穴が垂直にえぐられている。
どうしてこんなに深い穴が、山の中腹の林のなかに、口を開けているのだろうか男は好奇心に駆られて、穴の底がどうなっているのか覗き込もうとする。
すり鉢状の斜面の岩にピッケルの石突を突き立てて、それに身を持たせて穴の中を覗き込もうとしたとき、石突が岩の上を滑って、男は傾斜した岩の上に倒れこむ。
とっさに彼は、自分のおちいった危険の恐ろしさを直感した。
実感
そう、これは恐怖の実感の物語である。不用意な行動は慎むべきだという教訓の物語ではない。
世の中には危険な穴がいたるところに潜んでいるという比喩でもない。
読み進めていくうちに、その恐怖の実感が、読者に静かに伝わってくる。
恐怖に感染した読者は、穴に転落した男のように穴底から抜け出そうと様々な試みをするようになる。
穴は転落死するほどの深さではなかった。
穴の深さは、男の身長の2倍ぐらい。
穴の壁もすり鉢状の傾斜も、固く滑らかな岩でできていて、登るための手がかりは見当たらない。
ピッケルを片手に持って高く差し上げると、ピッケルの嘴(はし)が穴の縁から15cmぐらい下がった位置に届く。
穴はその程度の深さなのだ。
この深さをよじ登るのは、不可能なことではないように思える。
そうであれば良いと思うことで、読者は男の境遇を自身のものと感じ始める。
だが様々な工夫と試みが失敗する。
穴は転落死するほどの深さではなかった。
穴の深さは、男の身長の2倍ぐらい。
穴の壁もすり鉢状の傾斜も、固く滑らかな岩でできていて、登るための手がかりは見当たらない。
ピッケルを片手に持って高く差し上げると、ピッケルの嘴(はし)が穴の縁から15cmぐらい下がった位置に届く。
穴はその程度の深さなのだ。
この深さをよじ登るのは、不可能なことではないように思える。
幻覚
おそらく読者は、男が知恵を絞って穴の底から脱出する物語なのだと予想することだろう。そうであれば良いと思うことで、読者は男の境遇を自身のものと感じ始める。
だが様々な工夫と試みが失敗する。
そのたびに男は穴の底に墜落し、負傷を重ね、体の自由を奪われていく。
読者の不安も募っていくばかり。
ある日偶然に、風に倒れた木が穴の中に枝を垂れても、その枝を手繰り寄せて岩の壁を登って行く腕力は残っていない。
男は幻覚を見るようになる。
その幻覚の男が、自分自身の反映であることに男は気がつく。
彼は、彼自身である男の肉体が奇怪な形に変化していくのを見る。
読者の不安も募っていくばかり。
ある日偶然に、風に倒れた木が穴の中に枝を垂れても、その枝を手繰り寄せて岩の壁を登って行く腕力は残っていない。
男は幻覚を見るようになる。
その幻覚の男が、自分自身の反映であることに男は気がつく。
彼は、彼自身である男の肉体が奇怪な形に変化していくのを見る。
からだは徐々にやせ細り、背丈が次第に伸びている。顔は円く小さく滑らかになり、あごの出っ張りが消えかけている。耳たぶは垂れ下がり、今にもしたたり落ちそうなしずくのように見えている。暫らくの間に、男の相好は何やら鳥に似通ってきて、小さく円く滑らかになった顔が、細長いからだの上に覚束なそうにのっていた。男と一緒になって恐怖している読者は、男の体の変化を、自分のことのように感じる。
日常の世界で、非日常の物語を読んでいる読者は、いつのまにか穴の底に引きずり込まれ、非日常の世界から日常の空を見上げている自身に気がつく。
穴の底に落ちたのは読者
なぜこの物語に独りの男しか登場しないのか。孤独な読者は、穴の底の男と自身を重ねはじめる。
いや、もう穴の底の男になりきってしまっている。
そして読者は、自身の肉体が鳥のように変化していることを実感する。
この穴の底に現れる幻覚は、穴の底に引きずり込まれた読者の姿である。
穴の縁から男を見下ろしていた読者が、小説の紙面をすり抜けて穴の底に転落し、幻のような鳥の姿となって小説に登場するのである。
読者体感型3D小説。
読者は、穴の底に落ちた男と一緒に、穴の外縁によって丸く切り取られた青空を見上げている。
非日常の世界に陥った読者が、日常の空から切り離された絶望的な孤独感を実感する。
この短編小説の解説で宮部みゆき氏は「読んでいるとき過呼吸になりそうなほど怖かった!」と語っている。
好奇心が旺盛で想像力に長けた読者は、転落した穴の底に取り残される恐怖を実感することだろう。
読者はもはや、この男が読者自身であるという実感から逃れられない。
(※赤字部分は小説「穴の底」からの抜粋)