雑談散歩

    山スキーやハイキング、読書や江戸俳諧、山野草や散歩、その他雑多なことなど。

蜂飼耳の小説「ほたるいかに触る」を読んだ

蜂飼耳氏略歴。
 

叔父が死んだ。
という書き出しではじまる短い小説「ほたるいかに触る」を読んだ。
作者は蜂飼耳(はちかい みみ)。

死んだ叔父は、ほたるいかの町のそばに住んでいた、と書かれてある。
ほたるいかと言えば、北陸のあの町だろうか。


それっきり叔父の話は、文面にはでてこない。
物語の語り手は、展示場の水槽に手を入れて、ほたるいかに触る。
手の中で、どく、どく、どく。脈打つ。どきりとして、緩める。
実際に、滑川市にある「ほたるいかミュージアム」では、捕獲されたホタルイカに触ることができるらしい。

小説を読み進めていたら、気になる文章に出会った。
冷たい水に両手を浸したまま、心だけ後退する。詩に似た影が足元に溜まる。
「詩に似た影」とはなんだろう。
すらすらと文字を読んでいた読者の目は、「詩に似た影」にくぎ付けになる。

もしこれが「死に似た影」なら、それは叔父の死であろうと想像できる。
おそらく叔父は自殺したのだろう。
と私は空想してしまった。
そういうイメージが、この物語には濃厚であると感じている。

語り手は、親しかった叔父とお別れするために「ほたるいかの町」にやってきたのだ。
ひととおり葬儀が終わって、ふらっとほたるいかの展示場に入る。
生前叔父から、展示場の囚われたほたるいかの話を聞いていたのだろう。
走った後の鼓動のような、速い脈が伝わる。ほたるいかが、とてつもない危機を感じていることがわかる。ひどいことをしていると、わかる。
人は、ちいさな生き物の命をもてあそんで、ひどいことをしているのだ。
そうして人は、自身がそういう肉体であることを知る。

語り手は、弱者だった叔父とほたるいかを重ねている。
こんなふうに繰り返し触られて、触られて、やがて疲れて、死んでしまうのだろう。
 顔を上げ、注意書きに気づいて、はっとする。「食べないでください」。そう書いてあった。

展示場の職員が、ユーモアのつもりでこんな看板をさげるのはありそうなことだ。
だが語り手は、この小さな生き物が、食べられる存在として生きているのだと、いまさらのように気づいてはっとする。

十センチに満たないほたるいかたちの眼は、いきいきと黒い。見られているな、と確信させる眼だ。まばたきはしない。こんなものを、捕まえて食べるのだ。闇のなかで脅かされれば青い光を流す、このようなものたちを。

語り手は、自身もまたほたるいかを食べる存在なのだと「冷たい水に両手を浸したまま」でいる。
同時に、いきいきと黒いほたるいかの眼に見つめられて、「心だけ後退する」

言葉は告げる。
語り手は、ほたるいかの生と死(人間の生と死)に対する「言葉」が、影のように足元に溜まっていると感じる。

「心だけ後退する」
足元に、影が溜まっている。
その影は、詩にも似ていると感じる。

詩とは何だろう?
読者は、そう感じる。

語り手は、作者同様詩人なのだ。
もしかしたら、死んだ叔父も詩人であったかもしれない。

語り手は、ほたるいかの展示場を離れ、目の前の海を眺める。

この水の下に、ほたるいかの群れが、あらゆるものが、黙って、消えていく。

叔父が、黙って海の中へ消えたように。
「心だけ後退」した語り手は、叔父が消えていった「水の下」を見つめている。

この「水の下」「詩に似た影」が溜まっている「足元」を連想させる。
いや、それはないか。

でも、「水の下」「足元」
かけ離れているようで、かけ離れていない。

というふうに、私は蜂飼耳の小説「ほたるいかに触る」を読んだ。

(※赤字部分は「ほたるいかに触る」より抜粋)

Next Post Previous Post

広告