カルロ・ドッスィの短篇小説「魔術師」を読んだ雑感
「魔術師」が収録されている「19世紀イタリア怪奇幻想短編集(橋本勝雄 編・訳)」光文社文庫。 |
カルロ・ドッスィの短篇小説「魔術師」を読んで、「死恐怖症」という病気があることをはじめて知った。
高所恐怖症とか閉所恐怖症とか対人恐怖症とか。
それらの症状については、ある程度知っていたが、死恐怖症という深刻な病が存在することは、「魔術師」を読むまで知らなかった。
人は誰でも自身の死を恐れるものである。
私は、9歳の頃に肺結核を患って、熱や体のだるさで苦しんだことがあった。
そのときは、肺結核という病気よりも、自身の死を恐怖していた記憶がある。
酷い頭痛や脱力感のさなかで、自分はこのまま恐ろしい死の世界に連れ去られてしまうだろうと、ふるえあがっていた。
高熱のせいであったかもしれない。
短篇小説「魔術師」のなかに、「まだ幼い子供だった頃の彼は、『死』ということばを聞くと、両手をよじらせ、声を震わせ、顔を手で触っては骨を確かめたものだった。」という記述がある。
この箇所を読んだとき、私に鮮やかな記憶がよみがえった。
そうなのだ。
自分も「顔を手で触っては骨を確かめた」覚えがある。
それは、ずっと長く横になっていると、ひょっとしたら自分は死んでいるのではないかという疑問が湧くからだった。
まだ手は動くのか、とか。
いま見ている天井は、顔についている目で見ているのだろうか、という変な疑問が。
だが、私は「魔術師」の主人公のように「死恐怖症」にとりつかれなかった。
肺結核が治癒した後、子どもらしく遊んで過ごしているうちに死への恐怖感は普通程度に薄れていったのである。
「魔術師」の主人公であるマルティーノは、始終、死の恐怖にさいなまれ、年老いてから死の恐怖が原因で死ぬという結末を迎える。
彼は子供のころから「想像しうる最悪の病に苦しんでいた。」のである。
なぜなら、この病は「想像力によって生じた苦悩が倍増し、つねに新しい姿で現れるので、けっして気を休めることができないからだ。」だった。
青年になるとマルティーノは、死の恐怖に打ち克つために、死の概念を理解しようと、死についての書物を読み漁った。
しかし、恐怖は倍増するばかりだった。
死の恐怖を遠ざけようと医学に打ち込んだ。
その結果、マルティーノが得た新しい知識は、新たな恐怖をもたらした。
酒を飲み、恋人との乱痴気騒ぎで、しばし恐怖感から逃げ出すことができた。
その金髪の恋人が目の前で突然死したとき、彼は自身の死が目前に現れたような気がして、気を失ってしまう。
彼は「死にたくない」という思いから、自然科学の研究に打ち込んだ。
彼はこの研究でたくさんの知識(秘密)を手に入れたが、「心臓の鼓動を永遠に保つことは不可能」であると悟る。
「死」と「生命」について、人並み以上の探求心を働かせたのだが、求めるものは得られなかった。
挙句の果てに彼は、魔法の世界に足を踏み入れ、「永遠に生きる方法」や「尽きない若さ」について書かれた怪しげな書籍を読み漁った。
窓を閉じて、暗闇のなかで孤独に過ごした。
近所の人たちから魔術師と恐れられるようになったのは、この頃からだった。
孤独に耐えることができたのは、強い探求心があったからだろう。
強い探求心の持主は、えてして変人扱いされる。
マルティーノは、暗闇の世界に生きる謎の老人になった。
しかし、時間はけっして止まらなかった。ある日の早朝、マルティーノは叫び声をあげ、苦し気にあえぎ、「死恐怖症」の強烈な発作に襲われる。
近所の男が司祭を呼びに行ったが、司祭を見た魔術師は「自分は助からない、もう最後」だと観念する。
司祭は彼の手を握ろうとした。マルティーノは毒蛇に触れたかのように、恐れおののいた。そしてベッドに倒れこみ、マルティーノは死んだ。
死恐怖症にとりつかれた男の人生は、探求の人生だったのだ。
死に対する恐怖心が、彼を勉学に駆り立てた。
だが、知識を得れば得るほど、恐怖は増大する。
死は、避けられないものとしてマルティーノの前に立ちはだかる。
この物語の物足りないところは、マルティーノが書を残していないということだ。
彼は、死を恐れて、怯えてばかりいたわけではない。
あらゆる方面から、「死」や「生」に対して研究を重ねていた。
そうして、年老いて死んだのである。
宗教や医学や自然科学や魔術や。
ひょっとしたら哲学も。
それほどの学問をおさめた者なら、研究成果を書物にして残しそうなものだが。
ここで、僭越なことを言おう。
その貴重な著作が、魔術師を恐れる民衆の手によって焼き捨てられてしまうというオチがあったらなあと思う。
なぜ死をおそれるのだ。
生きている者が死ぬのは「常識」じゃないか。
と民衆は考える。
民衆の共同体は、その辺に掲示されている「常識」には従うが、理解が及ばない「孤独な謎」を忌み嫌う。
というオチがあれば、私好みの幻想小説なのだが。
(※赤文字部分は小説からの抜粋)