2022/06/26

豊島与志雄の短篇小説「沼のほとりー近代説話ー」読書メモ

「沼のほとり」は、河出文庫「日本怪談集」に収録。

傍題の「近代説話」とは、戦後、豊島与志雄が次々と発表した小説につけたサブタイトル。
自身の小説を「説話」風にシリーズ化したものと思われる。

日本では、平安時代から鎌倉時代にかけて「説話集」が多く登場した。
主なものに「羅生門」などが収録されている「今昔物語集」とか、「宇治拾遺物語集」がある。
そういう中世(古代)の説話集に対して、自身が描いた説話集を「近代説話」と銘打ったのではあるまいか。

「説話」とは、噂話や昔話など、「言い伝え」で世の中に広まった話(物語)のことである。
古典の説話集には、幻想譚や笑い話や教訓など、雑多な話題が盛り込まれている。

小説「沼のほとり」は、語り手が高齢の女性口調であると私は感じている。
こういう雰囲気の演出も、口承文芸である「説話」のスタイルを意識したものなのだろう。

この小説は、戦時下に非日常世界へ足を踏み入れたかもしれない女性の物語である。
あるいは、戦時下の非日常世界で、いっとき、夢のような日常を体験した女性の物語、とでも言おうか。
小説にあらわれる沼の霧は、現実世界と幻世界をつなぐ通路なのかもしれない。

主人公である女性(佐伯八重子)は、兵営(息子と面会)→停車場(駅)→霧深い沼→沼のほとりの女性の家(一泊)→街道(停車場へ続く)と移動する。
それが物語の前半となっている。

兵営に入所している息子との面会の帰り、東京にもどる切符が売り切れてしまったので、停車場の腰掛で体を休めながら佐伯八重子は途方に暮れる。
そこへ現れた女が、泊る宿がないなら自分の家へと八重子を誘う。
八重子は「ほんとに困りぬいていたところでございますと言って女に従う。

以下に、前半部で、私が気になる描写をピックアップする。

(1)その大きな眼付の無表情とも言えるぶしつけな平静さが、八重子を夢の中のような気持にさせました。(八重子が駅の待合室で初対面の女性に対した抱いた印象)

(2)女はふり返りましたが、にこりともしない無表情でした。小石交じりの道なのに、その吾妻下駄の音も殆どしませんでした。(停車場から沼への道中)

(3)「ご存知ありませんの。沼・・・・・・・というより、湖水でございますよ。」 この沼の広々とした水面が、生き物のように息づいているらしく思えて、八重子は連れの女へ身を寄せました。(沼のほとりで)

(4)そして彼女は妙に、八重子の方へ真正面に向かず、ただ大きな眼付だけをひたと向けました。(女性の家の居間で)

(5)そしてこの女主人は、あらゆることを知ってはいるが、肝腎な何かを知らず、つまり何にも知っていないように、八重子には感ぜられました。(居間で)

読者は、小説を読み進めながら、上記の箇所でちょっと立ち止まる。
なにかの前兆を感じる。
今にも怪奇なことが始まるのではないかと、先へ先へ読み進める。

(2)で女が、沼を湖水と言い替えたのは、沼から立ちのぼっている妖気を隠すためではないか、とか。
(5)では、ぼーっとしたはっきりしないことについて、女主人はよく知っているが、現実の世界については何も知らないことを、八重子は訝しく思ったことだろう、とか。
読者は、この家で起こるであろう異様な出来事の兆し(伏線)を探ろうとする。

その夜、八重子はよく眠れなかった。
うとうとしては眼を覚ますのを、何度も繰り返して過ごした。

そして、霧の深い朝を迎える。
女主人は昨夜と違い、八重子に笑顔で応対した。
気持ちの良い朝食を女主人と一緒に食べ、八重子は女主人の暮らしぶりなどについてわずかに知ることができた。

この家の少女が、八重子を停車場へ続く街道まで見送ってくれた。
その朝は霧が深くて沼を見ることができなかった。

東京に空襲が激しく続くなか、八重子よりだいぶ年下の従弟が南方で戦死したという知らせを受ける。
一方、八重子の息子は音信が途絶えていたが、終戦後、無事復員する。

しばらくたって、八重子は、戦死した従弟の実の姉(山田清子)の家を訪れる。
その家で手にした写真の中に、沼のほとりの家の女を見つける。
八重子は清子から、その女が、戦死した従弟の、かつての愛人だったことを聞かされる。

数日後、八重子と清子は、沼のほとりの女に会うために出かける。
ところが、街道沿いの町筋の先の記憶が判然としない。
町の商店で、女の暮らしぶりを述べて、その家を尋ねても誰も知らない。
こんな小さな田舎町なのに、沼のほとりの家を誰も知らないなんて。

八重子と清子は、途方に暮れて、沼のほとりに立ち尽くしてしまう。
ふたりには沼の水面が真ん中からおもむろに膨らんでくるように見えたのだった。
ここで、小説は終わっている。

戦時下にあったものが、終戦後には、消えてしまっていた。
これは、何を意味するのだろう。

女主人と少女が暮らしていた小さな家は、戦時下という沼のほとりでは、日常としてあったのだろう。
それが、終戦後の沼のほとりでは、非日常として姿を消してしまった。

沼は、日常世界と非日常世界を映し出す鏡だったのかもしれない。

この小説は、幽霊譚のようにも読めるが、沼のほとりに住む女は現実の幽霊ではないだろう。
幻のように現れて、幻のように消える。
日常と非日常の境目に生きるひとりの女なのだろう。

ひょっとしたら、沼のほとりの女は、八重子の従弟と愛人関係にあった頃も、幻の女であったのかもしれない。
女が沼のほとりの家で、八重子と朝食をともにしたとき、語った言葉がそれを物語っていると私には感じられた。

「あたくし、過去に、いろいろと、人様にご迷惑をかけたこともございます。それから、自分で、胸の晴れないこともございます。そういうことのために・・・・・」

おそらく、自身が幻であることを隠して、八重子の従弟と恋におちたということなのではないだろうか。

八重子と違い、戦時下でも、そういう社会に翻弄されずに暮らしてきた沼の女。

「部隊に面会に来られました方で、お困りなさっている方を見受けますと、時たま、泊めてあげたくなりますの。」

「そういうことのために」戦時下で苦労している人を助けることを、日常としているような女。

何やら、戦時下における幻想(文学)の存在を暗示しているような「説話」のように思われる。
上記(1)、(2)、(3)、(4)、(5)の言葉にも、そういう含みが感じられるのだが、私の思い過ごしだろうか。


(※赤文字部分は小説からの抜粋)