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「苦しくも降り来る雨か神が崎狭野のわたりに家もあらくに」と、藤原定家の本歌取りについて

2022/09/26

 苦しくも降り来る雨か神が崎狭野のわたりに家もあらくに
くるしくも ふりくるあめか みわがさき さぬのわたりに いへもあらくに

万葉集第三巻・二百六十五番歌。
長忌寸奥麻呂(ながのいみきおきまろ)の歌。

他に、以下の表記の作者名もある。

「長奥麻呂(ながのおきまろ)」
「長意吉麻呂(ながのおきまろ)」

「旅先で雨に降られた切なさを何の技巧もなく訴える(坂口由美子氏)」
という評価が一般的なようである。
「心が順直に表わされ、無理なく受納れられるので、古来万葉の秀歌として評価されたし、」
と斎藤茂吉先生も述べておられる。

私は、短歌そのものが「技巧」であると思っているのだが。
こんなトーシロな考えは、専門家のご意見には及びもつかない。

だが、トーシロでも、読者としての感想は、湧いてくる。
その泡のような言葉で、この記事を書いている。

この万葉短歌もまた、前回の「玉藻かる」の記事のように、「場所」の推定についての意見が多い。
「神が崎(三輪崎)」はどこか。
「狭野(佐野)のわたり(渡り)」はここか。
と言うような論議。

私は、この歌に関しては、地名はあんまり気にならない。
「神が崎(三輪崎)」は地域(エリア)。
「狭野(佐野)のわたり(渡り)」は特定の場所(スポット)。
というイメージを持っている。

「神が崎狭野のわたり」という特定の場所ではない。

そう思うと、この歌に切なげな動き(移動)を、感じるのである。
こころの動きと重い足取りと。
たどり着いても、落胆。

雨降りの最中に「神が崎(三輪崎)」に入った。
しばらく歩いて「狭野(佐野)のわたり(渡り)」にたどり着いたが、すっかり濡れてしまった。
ここには、衣服を乾かす家もないので、寒くてしょうがない。

風邪をひいたらどうしよう。
肺炎になったら死ぬかもしれない。
とイメージしたら、「苦しくも」という初句が重くなった。

「苦しくも」は、つらくて我慢できない、という意であると私は感じている。
なので、斎藤茂吉先生は「心が順直に表わされ」とおっしゃったのだろう。
私も、そのへんが気に入っている歌である。

この歌は、いろいろな歌人の「本歌取り」の元歌(本歌)となっているらしい。

駒とめて袖うち払ふかげもなし佐野のわたりの雪の夕ぐれ
(こまとめて そでうちはらう かげもなし さののわたりの ゆきのゆうぐれ)

上記は、「苦しくも」の歌を「本歌」として、藤原定家(ふじわらのていか)が詠んだとされている歌である。
「本歌取り」の例として、よく挙げられる歌とのこと。

「有名な古歌のことばや内容などをそのまま用いることで、古歌の世界を自作の歌の背景に取り入れ、二重映しのイメージを作り上げる技法。中世の歌人藤原定家が理論付け、『新古今集』で最も盛んに行われた」
と坂口由美子氏は、「本歌取り」について明解に解説しておられる。

「苦しくも」は、動き(移動)の歌。
「駒とめて」は静止の歌。
と、私は感じている。

馬を止めて、衣服に付いた雪を払おうと物陰を探した。
でも、雪除けになる場所はなかった。

「佐野の渡り」では、雪が降り止まず。
しかも日が暮れかかっている。
そんなしんどい状況ではあるが、夕暮の雪景色は趣があってようございます。
と感じ入って、景色を眺めているような歌である。

「苦しくも」の歌にある衣服を濡らす雨。
それを、衣服に付着する雪に替えて、風流を呼び込んだのが「駒とめて」の歌であると思う。

「駒とめて袖うち払ふかげもなし」の、流れるような言葉の調べが美しい。
藤原定家は、「つらさ」のレベルを下げて「美しさ」のレベルを上げたのだろう。

じゅくじゅく濡れている、やぼったい生の実感。
それよりも風流重視。
リアルよりも美の形成へ。
藤原定家の、この歌における姿勢であると思われる。

斎藤茂吉先生は、「定家の空想的模倣歌」などとおっしゃっている。
「唯美」的な藤原定家を、軽く一蹴したのだ。


◆参考図書
斎藤茂吉著「万葉秀歌(上)」岩波新書
坂口由美子「ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 万葉集」角川ソフィア文庫

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