雑談散歩

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玉藻かる敏馬を過ぎて夏草の野島の崎に船ちかづきぬ

ブログ管理人が想定した「野島の崎」は、現在、江崎灯台があるあたり。

岩波新書の斎藤茂吉著「万葉秀歌」を、就眠前に、ちょくちょく拾い読みしている。
斎藤茂吉先生も、この書物の拾い読みを薦めていらっしゃる。

「行き当たりばったりという工合に頁(ページ)を繰って出た歌だけを読まれても好し」
と「序」に記している。


その読み方を「田畔汽車中電車中食後散策後架上就眠前等々に於いて」と「万葉仮名」風に述べておられて、面白い先生なのだが、「ねばならぬ」調が少々煩わしい。

この「万葉秀歌」で、柿本人麻呂の「玉藻かる」の歌に出会った。

柿本人麻呂は、好きな歌人である。
飛鳥時代(593年~710年)の歌人でありながら、「新古今和歌集」や「小倉百人一首」といった現代人になじみが深い「撰集」や「歌集」に登場していて、古臭さを感じさせない。

玉藻かる敏馬を過ぎて夏草の野島の崎に船ちかづきぬ
たまもかる みぬめをすぎて なつくさの のじまのさきに ふねちかづきぬ

「過ぎて」から「ちかづきね」へと至るスピード感にしびれた。
叙景に徹した描写が、飛鳥時代の瀬戸内海の映像を現出させている。

夏草におおわれた「野島の崎」が目に浮かぶ。
私がイメージする夏草は、クズとかカナムグラのような、草やぶを形成する蔓性植物である。

こんな歌が、他にあるだろうか。
船の勢いは、歌人の勢いなのか。

柿本人麻呂は、どんな心持で、この船旅に臨んだのだろうか。
読む者をワクワクさせる歌である。
(もしかしたら、ワクワクの正体が、この記事を最後まで読めばわかるかも。)

こんなにスピード感のある歌だから、「敏馬」と「野島の崎」は目と鼻の先でなければナラヌと思った。
ところが、斎藤茂吉先生によると、「敏馬」は「摂津武庫郡、小野浜から和田岬までの一帯」
「野島」は「淡路の津名郡に野島村がある」としている。
「野島」の別候補地として、「淡路三原郡に沼島(ぬしま)村がある」と述べておられる。

下の画像はその位置関係を私が描いたものだが、これでは、離れ過ぎていてスピード感を失ってしまう。

齋藤茂吉先生の想定。

なお、大西進氏は「敏馬」について、「現在の神戸市灘区岩屋町あたり」とし、斎藤茂吉先生の推察地域とほぼ同地域である。
「野島が崎」については、「淡路島の北端」と説明されている。

そこで、私はトーシロなりに、インターネットで調べてみた。

すると、「万葉集ナビ」というサイトで、山部赤人の長歌(第六巻・九百四十六番歌)を発見。
その「訓読」と「かな」を以下に抜粋した。
御食向ふ 淡路の島に 直向ふ 敏馬の浦の 沖辺には 深海松採り 浦廻には なのりそ刈る 深海松の 見まく欲しけど なのりその おのが名惜しみ 間使も 遣らずて我れは 生けりともなし
(みけむかふ あはぢのしまに ただむかふ みぬめのうらの おきへには ふかみるとり うらみには なのりそかる ふかみるの みまくほしけど なのりその おのがなをしみ まつかひも やらずてわれは いけりともなし)
山部赤人の歌によれば、「敏馬」は淡路島の真向かいに位置していることになる。
 
さらに同サイトで、「野島」についての山部赤人の短歌(第六巻・九百三十四番歌)も見つけた。
その「訓読」と「かな」を以下に抜粋。
朝なぎに楫の音聞こゆ御食つ国野島の海人の舟にしあるらし
(あさなぎに かぢのおときこゆ みけつくに のしまのあまの ふねにしあるらし)
この歌からは、「野島」の位置情報は読み取れない。
が、「野島」にも「敏馬」同様に海女がいたことがわかる。

「御食(みけ)つ国」とは、古代において、特色のある豊かな食材を朝廷に納めた国のこととされている。
志摩国、若狭国、淡路国が該当するとのこと。

上記の山部赤人の長歌と短歌にある「御食(みけ)」は、「野島」と密接な関係があると考えられる。
山部赤人が「淡路の島に 直向ふ 敏馬の浦」と詠った「敏馬の浦」は、「御食」の産地である「野島」から目視できる位置にあったのではなかろうか。

「斎藤茂吉説」と「大西進説」が示している「敏馬」は、現在の「敏馬神社」が鎮座している付近である。
「敏馬神社」付近は、淡路島の「野島」からは、淡路島北端の岬の陰になっていて目視できない。

柿本人麻呂が「玉藻かる敏馬」と詠った「敏馬」は、山部赤人の 「敏馬の浦の 沖辺には 深海松採り」と詠った「 敏馬の浦」のことであると推定できる。
とすれば、「敏馬神社」付近の「敏馬」と「敏馬の浦」は切り離して考えなければならないのではなかろうか。

「敏馬の浦」は、「淡路の島に 直向ふ」位置にあった。
という推察で探したが、私の調べでは、「敏馬の浦」の場所は「淡路の島に 直向ふ」には見つからなかった。

淡路島の大川公園の中に「貴船神社遺跡」がある。
そこは、弥生時代から奈良時代にかけて「野島」の海女が塩をつくっていた跡とされている。
淡路国は、その塩を朝廷に納めていたのだろう。

持統朝廷の宮廷歌人でもあり、朝廷の官吏でもあったとされる柿本人麻呂は、「野島」に朝廷の仕事で訪れていたと思われる。
「御食」の出来具合を調べに来ていたのかもしれない。
上陸地は、現在の「貴船神社遺跡」の近くの港だったことだろう。

おそらく、海女が塩をつくっていた「野島」と「野島の崎」は同じ場所ではないだろう。
淡路島の「崎」を回り込んで「野島」に到着する航路だったとすれば、その「崎」が「野島の崎」だったのではあるまいか。

私が、なぜこうも地名にこだわるのかと言えば、この記事の冒頭近くに記した「スピード感」故である。
「敏馬」が神戸市灘区近辺であったなら、「敏馬」を過ぎて「野島の崎」までは間があり過ぎて、船がなかなか近づけぬ、と思うからである。

ということで、私の空想の「敏馬」と、夏草が繁る「野島の崎」と、「野島」の場所。
それらを巡る航路を記入したものが下の空想図である。

私の空想による位置関係。

柿本人麻呂は、「敏馬」に寄港して、それから「野島」に向かったと私は空想している。
「敏馬」には海藻を刈る海女がいる。
「野島」には塩をつくる海人娘子(あまをとめ)がいる。

笠金村(かさのかなむら)という宮廷歌人が、播磨國印南野(いなみの)へ「行幸」のお供をしたときに作ったとされる歌(第六巻・九百三十六番歌)が万葉集にある。
玉藻刈る海人娘子ども見に行かむ舟楫もがも波高くとも
(たまもかる あまをとめども みにゆかむ ふなかぢもがも なみたかくとも)
笠金村が明石側から「直向ふ」の「野島」を眺め、「野島」の若い海女たちに会いに行きたいと詠んだ歌と思われる。
柿本人麻呂も、「敏馬」の海女や「野島」の海女に対して、同じ気持ちを抱いていたのかもしれない。
「歌の神様」は、恋多き人でもあった。

「敏馬」も「野島」も歌枕の地。
歌を詠むのも女性に会うのも歌人の業だったのかもしれない。

「敏馬」で麗しい海女に会い、次は「野島」だとばかり船を差し向ける。
「野島の崎」は絶壁の岩を這うトゲトゲの夏草だらけで私(人麻呂)を拒んでいるが、「野島」には美しい海女が私(人麻呂)を待っている。

人麻呂のワクワク感が、読者に伝わってくるはずである。

「玉藻かる」の歌を叙景歌であると前述したが、その叙景の裏には相聞歌が潜んでいる、と私は感じている。

歌聖の船は、叙景から相聞に向かって勢いよく近づいていたのである。
潮は、淡路島の北端から東端に沿って流れている。
船は、北端近くの「野島の崎」に近づき、そこからスピードを得て「野島」の港へ向かう。
潮の流れに乗って、柿本人麻呂の恋心と歌のスピード感は増すばかりだ。

こうして読者の空想は、万葉の時代の淡路島へ飛ぶ。
ダイナミックだなあ、万葉集。

玉藻かる敏馬を過ぎて夏草の野島の崎に船ちかづきぬ



◆参考図書
斎藤茂吉著「万葉秀歌(上)」岩波新書
中西進著「柿本人麻呂」日本詩人選2/筑摩書房

◆参考サイト
万葉集ナビ/万葉集の全4516歌をまとめたサイト
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