雑談散歩

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聖徳太子と関係があるとされている平川市碇ヶ関の古懸山不動院国上寺

境内にある「古懸不動尊の由来」の看板。

聖徳太子の命により建立

碇ヶ関にとてつもなく古いお寺があると聞いたので、それは拝見しなければと出かけた。

お寺の名は古懸山不動院国上寺(こがけさんふどういんこくじょうじ)。

上の画像は、古懸不動尊の由来を記した看板。
以下は、その抜粋である。
当国上寺は、推古天皇の十八年(六百十年)に聖徳太子の命により阿闍羅山に伽藍を建立し、円智上人が本尊不動明王を草創し、建長六年(千二百五十八年)北条時頼公が古懸に奉移し鎌倉将軍家数代の祈願所とした。
 のちに津軽家が国家鎮護と崇め古懸山不動院国上寺と改め津軽家代々の祈願所として明治維新廃藩まで寺務を相続した。
この看板によれば、なんと、このお寺は聖徳太子の命(下命)によって阿闍羅山(あじゃらやま)に建立されたと記されてある。

阿闍羅山といえば、大鰐町(おおわにまち)と平川市(碇ヶ関)の境界にある標高709.2mの山。
阿闍羅山の麓には、開湯八百年を誇る大鰐温泉郷がある。
山の斜面には大鰐温泉スキー場がある。

その阿闍羅山に、今から千四百十二年前に、遠く離れた奈良の飛鳥京(推古天皇・小墾田宮【おはりだのみや】)から寺建立の命が下されたとは!
にわかには信じ難い。

当時は蝦夷(えみし)が支配していた地に、聖徳太子の下命!
まつろわぬ民の地に。

はたして、千四百十二年前のこの地に、聖徳太子の下命に従う者がいたのだろうか。
と思ってしまった。

阿倍比羅夫の「北征」

「日本書紀」によれば、斉明天皇四年(658年)から阿倍比羅夫(あべのひらふ)の「北征」が開始されたという。
それは、日本海に沿っての遠征であったらしい。

一方、「北征」より三年前の斉明天皇元年(655年)には、「津刈(つかる)蝦夷(えみし)六人」が入朝し、大和政権より冠各二階を授かったと「日本書紀」に書かれてあるという。
なので、阿倍比羅夫の「北征」のときは、「津刈蝦夷」は、すでに大和政権と友好関係を築いていたとされている。

聖徳太子は574年に生を受け、621年に没したとされる飛鳥時代の政治家であり思想家である。
「津刈蝦夷」が入朝した655年より、45年ぐらい遡った610年頃に「津刈蝦夷」が大和政権と有効な関係にあったのなら、聖徳太子が阿闍羅山山麓に寺院を建立せよと命じた可能性はあるかもしれない。

蝦夷国と大和政権の境

聖徳太子が建立に関わったとされる「聖徳太子建立七大寺(しょうとくたいしこんりゅうしちだいじ)」は、奈良や京都や大阪など、その所在地は飛鳥京に近い。

  • 聖徳太子が北方の蝦夷を、懐柔や討伐で支配しようと試み。
  • 新たに大和政権下に組み込んだその地域に、寺院を建立して民を従わせ。
  • それによって、朝廷の影響力を浸透させるという政策を実施したなら、北関東から東北にかけて、あちこちに寺院建立の命が下っているはずである。

ところが、インターネットで検索しても、そういう記事は見あたらない。
なぜ「津刈蝦夷」の地に、寺を建てよと命じたのか。
聖徳太子にとって阿闍羅山は特別な場所なのか。
それは、謎である。

高橋崇(たかはしたかし)著「蝦夷(えみし)古代東北人の歴史」には、「蝦夷国境視察記」という作者の創作が描かれている。
高橋崇氏は歴史学者なので、史実に基づいた創作と思われる。

その創作には、崇峻二年(589)に近江臣満(おうみのおみみつ)が東山道(やまのみち)に派遣され、蝦夷との国境を観閲した様子が描かれている。

その視察は、聖徳太子が「天皇は支配する領域のすみずみまでの情勢をお知りになる必要がございます」と言上された結果であるとか。

高橋崇氏はこの創作で「宮城県北部近くから奥羽山脈を経て、山形・福島県境から新潟県にかけてあたりが朝廷支配地域と蝦夷国との境ではないか」と近江臣満に言わせている。

ということは、589年頃の「津刈蝦夷」は、まだ朝廷に帰順していなかったと思われる。

阿闍羅山

ここで、年代順に整理してみよう。

  1. 589年(崇峻天皇二年)頃:「津刈蝦夷」はまだ帰順せず。
  2. 610年(推古天皇十八年):聖徳太子が、阿闍羅山に寺院を建立するよう命じた?
  3. 655年(斉明天皇元年):「津刈蝦夷」入朝。
  4. 658年(斉明天皇四年):阿倍比羅夫の「北征」開始。

この年代の内容が正しければ、「津刈蝦夷」は589年から655年までの66年の間に、大和政権に服属したことになる。
610年に「津刈蝦夷」が大和政権と友好関係にあったとすれば、「聖徳太子が、阿闍羅山に寺院を建立するよう命じる」ことも可能であったかもしれない。

「津刈蝦夷」は他の東北地方の蝦夷よりも早い時期に、大和政権に帰順したという。
ご先祖様は、まっさきに「まつろわぬ民」をやめてしまったことになる。

抵抗しても勝ち目は無いと悟って、朝廷に帰順して利を得ようという戦略をとったのだろうか。
厳しい気候のため、困窮の暮らしを強いられていた北方の民は、大和王権に追従することで、生き残りの道を探ったのだろうか。

Wikipediaの「阿闍羅山」のページには「中世のころ山頂に蔵館大円寺(くらだてだいえんじ)の阿弥陀如来像の大日堂、古懸(こがけ)の不動堂、久渡寺(くどじ)の観音堂の三堂が建てられ「阿闍羅千坊」と言われていた」とある。
また、「あじゃらとは不動明王の梵名(サンスクリット語での名称)」ともある。

どうやら、古懸山不動院国上寺と阿闍羅山は関係がありそうに思われる。
では、聖徳太子と阿闍羅山の関係は、聖徳太子と古懸山不動院国上寺の関係はどうなのだろう?

大鰐町のサイトの、「大鰐町の由来」のページに「大鰐町は津軽地方でも仏教の伝来は早く」とある。
また、同ページの「阿闍羅の由来」の箇所には「聖徳太子が宮殿内に大日如来・不動尊・聖観音の三尊を祀り、阿闍羅不動と称した」という記事もある。

だが、「阿闍羅山」という山名が聖徳太子に因んで名づけられたものなのかどうか。
仏教の布教の影響によるものなのかどうか。
このサイトでは、そこまでは明らかにしていない。

太子信仰

Wikipediaの「太子信仰」のページには、聖徳太子の没後、「太子信仰(聖徳太子信仰)」が急速に広まったとある。
聖徳太子は超人的能力をもつ存在として崇敬の対象となり、多様な信仰形態が現在まで受け継がれているという。
東北では、岩手県や福島県に、信仰の対象である「太子像」が多く残されているとのこと。

ところが、津軽地方には、「太子信仰」は伝わっていないようである。
聖徳太子が建立に関わったとされている法隆寺や四天王寺は、平安時代には「太子信仰」の中心地であったとされているのに、大鰐や碇ヶ関近辺に「太子信仰」は存在していない。

古懸山不動院国上寺には、弘法大師の像はあったが「太子像」は無かった。
ますます聖徳太子と阿闍羅山や古懸山不動院国上寺の因縁は薄まるばかりである。

いつの日か、阿闍羅山から遺構が発見され、聖徳太子に関する古文書でも出てくれば、「聖徳太子の下命」が明らかになる。

もしかしたら、「推古天皇の十八年(六百十年)」に「津刈蝦夷」が大和王権と友好関係にあったという史実も発掘されるかもしれない。

太子像がポロリと出現するかもしれない。

それは、いつの日か。


■参考文献
「蝦夷 古代東北人の歴史」 高橋崇 著 中公新書
新編弘前市史 通史編1(古代・中世) 第3章 古代蝦夷の時代 第二節 津軽の蝦夷と阿倍比羅夫の遠征

弘法大師の像。

奥に国上寺の本堂。

護摩堂。

護摩堂の不動尊。

護摩堂左手に飾られている絵。

右手の絵。

本堂の本尊。

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