雑談散歩

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廣沢やひとり時雨るゝ沼太良

「国立国会図書館デジタルコレクション」より。

蕉門の俳諧師で、去来や其角、嵐雪、凡兆、曾良などは有名だが、中村史邦(ふみくに)を知る人はあまりいない。
蕉門の発句・連句集である「猿蓑」に十四句も入集した実力者でありながら、現代ではあまり注目されていない存在である。

その「猿蓑」以後の句作活動は、衰えが見られるとされているので、現代では話題にのぼらないのだろうか。
このあたりは野沢凡兆を彷彿させる。
野沢凡兆も「猿蓑」以後の句作は、以前ほどの精彩がないと言われているからだ。

中村史邦と野沢凡兆は、医師だったという共通点もある。
両者とも、はたして実際はどうであったのか。
今後、未発見の「秀句」が出てこないとも限らない。

インターネットの「朝日日本歴史人物事典」などによれば、中村史邦(なかむら ふみくに)は、尾張犬山の人で、元禄期に活躍した蕉門の俳人とある。
生没年は不詳とのこと。
のちに犬山を離れ、京に出て御所に出仕した。
この上京は、蕉門の高弟である向井去来(むかい きょらい)が手配したという説もある。
さらに京都所司代の与力も勤めたが職を辞して江戸に下ったという。
職を辞した原因は、仕事上の「不祥事」という説もある。

史邦は芭蕉の『嵯峨日記』などを伝来した人。
『芭蕉庵小文庫』は、史邦の編著となっている。

その史邦の一句。

廣沢やひとり時雨るゝ沼太良
中村史邦

元禄四年(1691年)七月発刊の蕉門の発句・連句集「猿蓑」は「巻之一 冬」で始まる。
「巻之一 冬」は「初時雨猿も小蓑をほしげ也」という芭蕉の巻頭句の後に、「時雨」をテーマにしたものが十三句続く。
史邦の掲句は、六番目に登場する。

ちなみに凡兆の「時雨るゝや黒木つむ屋の窓あかり」というカッコいい句は九番目にある。

「廣沢(ひろさわ)」とは、広沢池のこと。
広沢池は、京都の嵯峨野にあって、観月や観桜の名所となっている。
「歌枕」の地でもある。

「沼太良」は沼太郎のこと。
沼太郎は、ガンの仲間であるヒシクイの別名。
ヒシクイは、池沼、水田、湿地などに生息する渡鳥。
池沼で水草のヒシの実を好んで食べるのでヒシクイと名付けられたとのこと。

そのヒシクイが、冷たい雨に打たれてぽつんと一羽、広沢池のほとりに佇んでいる。
ヒシクイは、全体に淡い暗褐色で、首が長く体も大きい。
群れで行動することが多い鳥であるが、掲句の「沼太良」は「ひとり」である。
「時雨る」には、時雨が降るという意味のほか、涙ぐむという意味もある。

この句の「沼太良」は、孤独で意気消沈としている人の姿のようにも感じられる。
寂しい光景から、寂しい「叙情」が伝わってくるような句である。

前回このブログで支考の記事を書いた際に、去来宛の芭蕉の書簡(元禄五年五月)をとりあげた。
その書簡には、仙洞御所与力の史邦に不祥事が起こっていた事への芭蕉の憂慮も書かれている。

以下は、その長い書簡のなかで、史邦について書かれている部分である。
「一、先書(せんしょ)、史邦(ふみくに)事(こと)委細に仰せ聞けられ候。奉公人の常、尤(もっと)も武士の覚悟にて御座候へば、驚くべき事にはあらず候へ共(ども)、後の御状に此(この)事御座無く候間、少々事(こと)静まり候哉(や)と推察候。
去歳、人々とりこみ、版木(はんぎ)三物(みつもの)などとて少しは騒ぎ過され候へば、佞者(ねいしゃ)の悪(にく)みたるべく候。尤も是(これ)又世の常にて御座候。何様(なにさま)ケ様(やう)の処も存ぜずにはあらず、随分他の交はり御止(やめ)、是非貪着(とんじゃく)之無き様(やう)に、実(まこと)にしのびしのび御修行あれかしと存じたる事に御座候。

拙者など長(なが)々と逗留、是又(これまた)史邦子(し)為(ため)には大害の御事共(ども)に存じ候。若(もし)静まり候はば、愈(いよいよ)張り相(あひ)にならざる様(やう)に、少しは御遠慮の躰(てい)然るべく候。破れて御退き候段、是非なき事に候。則ち人の平生此(かく)の如くに御座候。近き便(びん)、今一左右(いっさう)具(つぶさ)に承り度く存じ候。」(「芭蕉年譜大成」より引用)
これを私なりに現代語に訳してみると。

「先日の書状で、史邦の事情について詳細にお聞かせいただきました。勤め人にはありふれたことです。武士の心構えということであれば、少しも驚くようなことではないけれども、その後のお手紙に、この事について触れていらっしゃらないので、多少は事が静まっているのかなと推察致しております。
去年、多くの人を巻き込んで、出版だの、歳旦の三物(発句、脇句、第三句)だのと少し騒ぎ過ぎたので、心のねじけた人が妬んだのでしょう。まったくこんなことは世間にありふれたことです。
なんといっても(史邦は)、このような事を知らないことはないでしょう。できるかぎり(俳諧仲間)との交友を自粛し、なんとしても(俳諧に)執着してとらわれることがないように、ほんとうに目立たないように(俳諧の)勉強をしていただきたいと思っています。
私(芭蕉)なんかが(史邦宅)に長く滞在したこと、これなどもまた史邦さんに関して大きな災いになったことだと思います。もし落ち着いたら、なおいっそう争いにならないように、控えめな態度であるべきです。だめになって職を退くことになった場合はやむを得ないでしょう。言うまでもなく人の日常はこのようにあります。この次の便りで、もうちょっと詳しくお知らせいただきたいと思います。」

芭蕉翁の史邦に対する気遣いがよくわかる手紙である。
「空想的世界(虚)に執着しすぎていると、サラリーマンの現実生活(実)にもどれなくなるから、史邦君のような真面目なカタギの人は、ほどほどに俳諧と関わるほうが賢明ですよ」と言っているように私には聞こえる。

だが史邦は、職を辞して、サラリーマンの群れから離れてしまう。

廣沢やひとり時雨るゝ沼太良

■参考文献
「芭蕉年譜大成」 今榮藏 著 角川書店
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