内田百閒の幻想小説「遊就館」を読んだ感想
千代田区九段北、靖国神社敷地内にある遊就館。 |
遊就館とは
「遊就館(ゆうしゅうかん)」という館は、内田百閒の創作上のものかと思ったが、そうではなかった。「遊就館」は、靖国神社の境内のなかに実在する展示館だった。
初代の「遊就館」は、1881年に、国防思想の普及のため、旧日本陸海軍の武器陳列所として建てられたらしい。
ウィキペディアによると、現在の「遊就館」は再建されたもので、戦没者や軍事関係の資料を収蔵・展示しているとのこと。
1階玄関ホール、1階展示室、大展示室、2階展示室があり、古代の戦争から太平洋戦争までの資料や武器・兵器などが展示されているという。
1階玄関ホールには、戦闘機や加農砲(かのんほう)、榴弾砲(りゅうだんほう)や蒸気機関車などが展示されているとのこと。
1階展示室および大展示室には、戦車や戦闘機、特攻兵器である人間魚雷「回天」や人間ロケット「桜花」が展示されているという。
2階展示室には、刀剣類や甲冑、古式銃、戊辰戦争時に官軍が用いた錦旗(きんき)などが展示されているとのこと。
気軽に見物できそうな雰囲気を持った展示館ではないようである。
幻想的な入れ子式多重夢
さて小説「遊就館」は、夢の中で夢を見る「多重夢」が「入れ子」のように続く幻想小説である。小説の冒頭に、最後の「入れ子」の中に入っている夢が登場する。
そう私は推測している。
以後順々に、「入れ子」の容器が大きくなり、文末では、最後の悪夢から解放された主人公が、現実の友人の家を訪ねている。
小説を読み進めていく順路上の最後の夢は、最初の「入れ子」の容器に入っている。
主人公は、悪夢の「入れ子」の底から、「入れ子」を開ける前の現実の世界へ浮上したのである。
読者は主人公とともに、連続する悪夢をくぐりぬけ、その行程で、空間の歪みを体験し時間のずれを体験する。
(1)自宅での夢
あたりは暗く、重苦しい雲が家の廂の上まで降りている。
主人公である「私」は、手が異様に黄色い「変な砲兵大尉」の訪問を受ける。
「私」はこの大尉に見覚えがない。
大尉は、きのう九段坂で「私」を見かけたという。
しかし「私」は、昨日は外出していない。
「私」は、九段坂と聞いて、悪寒が走るような嫌な気分になる。
主人公である「私」は、手が異様に黄色い「変な砲兵大尉」の訪問を受ける。
「私」はこの大尉に見覚えがない。
大尉は、きのう九段坂で「私」を見かけたという。
しかし「私」は、昨日は外出していない。
「私」は、九段坂と聞いて、悪寒が走るような嫌な気分になる。
(2)遊就館へ出かけた夢
九段坂が風のために曲がっている。
遊就館の入り口の前が、大砲の弾と馬の脚でいっぱいになっている。
その大砲の弾は、踏んでもふにゃふにゃしている。
耳の無い門番のそばをすり抜けて中へ入る。
軍服を着た死骸が横に並んで幾段にも積み重ねられている。
遊就館の入り口の前が、大砲の弾と馬の脚でいっぱいになっている。
その大砲の弾は、踏んでもふにゃふにゃしている。
耳の無い門番のそばをすり抜けて中へ入る。
軍服を着た死骸が横に並んで幾段にも積み重ねられている。
(3)友人の送別会の夢
九段坂下の料理店で、友人の出立の日にちが話題になる。
飲んでいると、「変な砲兵大尉」が合流する。
大尉の自動車に乗り、芸妓のいる料理屋に入る。
芸妓の背が高くなって、頭が天井につかえそうになる。
「私」は夢のことを考えているうちに、右手ばかりを九段坂の柵の上にずらりと立てたら素敵だなと思ったりする。
駅を出て、大きな支那人のいる支那料理屋に入る。
入り口にいる支那人と店の奥にいる支那人が同一人物だった。
そんなことはあるはずがないと「私」は思う。
陳列物のなかを駆け抜けるように通って、出口に向かう。
出口の近くで、硝子戸棚のなかの軍服を着た人形を見かける。
その人形は、等身大で、とても人形とは思えない。
顔や手の色が、妙に黄色かった。
「私」は吐き気をもよおし、急いで外に出た。
現実と接している最初の「入れ子」の容器には、主人公の最後の夢が入っていた。
(1)の夢に登場した、手が黄色い「変な砲兵大尉」は(6)の夢からやってきたと思われる。
「多重夢」の進行方向は錯綜している。
(6)から(1)へ進みながら、(1)から(6)へ進んでいる。
その錯綜が、廂の上に雲を降ろしたり、九段坂を風で曲げたり、芸妓の頭を天井に付けたり、背の大きい支那人を瞬間移動させたりして、空間を歪めているのだろう。
作者が創り出した幻想世界は、多重構造で時間の紐を解いたり結んだりしている。
飲んでいると、「変な砲兵大尉」が合流する。
大尉の自動車に乗り、芸妓のいる料理屋に入る。
芸妓の背が高くなって、頭が天井につかえそうになる。
(4)妻が夢を見ている夢
妻が見た死骸の夢と、「私」が見た死骸の夢が重なる。「私」は夢のことを考えているうちに、右手ばかりを九段坂の柵の上にずらりと立てたら素敵だなと思ったりする。
(5)東京駅での夢
友人を見送るために東京駅に行ったが、友人には会えなかった。駅を出て、大きな支那人のいる支那料理屋に入る。
入り口にいる支那人と店の奥にいる支那人が同一人物だった。
そんなことはあるはずがないと「私」は思う。
(6)また遊就館へ出かけた夢
「私」は、遊就館のなかを通り抜けたら、気分がさっぱりするのではないかと考える。陳列物のなかを駆け抜けるように通って、出口に向かう。
出口の近くで、硝子戸棚のなかの軍服を着た人形を見かける。
その人形は、等身大で、とても人形とは思えない。
顔や手の色が、妙に黄色かった。
「私」は吐き気をもよおし、急いで外に出た。
遊就館の夢から現実へ抜ける
こうして主人公は、「入れ子」式の悪夢の底から、最初の「入れ子」の容器を抜けて、現実の世界に出たのである。現実と接している最初の「入れ子」の容器には、主人公の最後の夢が入っていた。
(1)の夢に登場した、手が黄色い「変な砲兵大尉」は(6)の夢からやってきたと思われる。
「多重夢」の進行方向は錯綜している。
(6)から(1)へ進みながら、(1)から(6)へ進んでいる。
その錯綜が、廂の上に雲を降ろしたり、九段坂を風で曲げたり、芸妓の頭を天井に付けたり、背の大きい支那人を瞬間移動させたりして、空間を歪めているのだろう。
作者が創り出した幻想世界は、多重構造で時間の紐を解いたり結んだりしている。
「二十九日ですよ。今日は七日だから、間を一日おいて、つまり明後日さ」
「早いねえ」
「早くないねえ」「早いよ」「早くないよ」「遅くはなかろう」
「遅いよ」
「私」が早いと思っていたのが、実は、友人の言う通り遅かったのだ。
現実の世界にもどった「私」が友人の家を訪ねると、友人はすでに二週間前に田舎へ発っていた。
現実を断片化して、「入れ子」の容器に幾層にもしまい込む。
その「入れ子」のなかを勝手に行き来する「変な砲兵大尉」。
彼は、遊就館の硝子戸棚の中には納まらない妖怪である。
それにしても「変な砲兵大尉」は、まるでアメコミに出てくるようなユニークなキャラクターである。
そういえば、「とほぼえ」に出てくる氷屋のおやじもユニークな幽霊だった。
内田百閒の手腕を感じる奇抜なキャラクター達である。
そんなふうに、「遊就館」は奇抜でユーモラスな幻想小説だった。
色文字部分:小説からの抜粋
現実の世界にもどった「私」が友人の家を訪ねると、友人はすでに二週間前に田舎へ発っていた。
大尉の正体
小説の「多重夢」は作者の多重な視点を表しているのかもしれない。現実を断片化して、「入れ子」の容器に幾層にもしまい込む。
その「入れ子」のなかを勝手に行き来する「変な砲兵大尉」。
彼は、遊就館の硝子戸棚の中には納まらない妖怪である。
それにしても「変な砲兵大尉」は、まるでアメコミに出てくるようなユニークなキャラクターである。
そういえば、「とほぼえ」に出てくる氷屋のおやじもユニークな幽霊だった。
内田百閒の手腕を感じる奇抜なキャラクター達である。
そんなふうに、「遊就館」は奇抜でユーモラスな幻想小説だった。
色文字部分:小説からの抜粋