内田百閒の短篇小説「件」を読んだ
丹後倉橋山の件を描いた天保7年の文献(パブリック・ドメイン) |
哀愁物語
ネットで、面白いという評判が高かったので、内田百閒の「件(くだん)」という短編小説を読んだ。ネットでは「滑稽な物語である」という感想もあったが、私が読んだ限りではこの話を滑稽だとは思わなかった。
「盲目で意志のない人間への批判が描かれている」という評もあった。
うーん、難しい。
そんな社会批判や教育じみた教訓話を、この作者は書くだろうか。
なんとなくそう思った。
いままで、「とほぼえ」と「遊就館」を読んだだけだが、なんとなくそう思える。
この小説は、「件」という妖怪に変身した男の哀愁物語である。
無数の暴力的な人間たちに取り囲まれる、ひとりの弱々しい妖怪の姿が描かれている。
予言する妖怪
とてつもなく広い原っぱで、一匹(?)の不安げな妖怪に群がる何万人もの人間たち。彼らは、「件」が発する予言を聞くために、遠路はるばる広野にやってきたのである。
「件」というのは、日本の古い妖怪のこと。
「件」は、顔が人間で体が牛の姿をしているという。
この世の吉凶を予言する妖怪であると言われている。
しかし、この小説に登場している「件」は、何の霊力も持ってはいない。
そんな「件」から予言という利を得ようと群がる人間たち。
その集団ヒステリーが、目に見えるように描かれている。
地平線の細い光の筋の中に、黒い小さな点がいくつもいくつも現れる。
見る見るうちにその点の数が増えて、地平線一帯に黒い点が並んだとき空が暗くなって日が暮れる。
朝になって「件」は、黒い点が「件」の予言を聞こうと夜通し広野を歩いて来た群衆であることを知る。
かつては人間だった「件」は、なぜか半人半牛の妖怪になって、人間を恐れている。
「件」は、言うべき「予言」を何も持っていないのだった。
「予言」がないことを知った人間たちが、そのことを怒り、「件」である私にひどいことをするかもしれない。
知人の群れ
「件」が予言を持っていないことを、まだ知らない人々が、我先に予言を聞こうと迫ってくる。人々の話し声を聞いていると、その声に聞き覚えのあるものが何人もいることに「件」は気がつく。
「件」になる前に親しくしていた者たちが群衆に交じって、いまかいまかと「件」の予言に聞き耳をたてている。
はたして「件」は「予言」を発するのだろうか。
それはこの小説を読んでからのお楽しみだ。
群衆の正体
群衆のなかに友人や親類や、昔学校で教わった先生や、自分が学校で教えた生徒など、見覚えのある顔が見える。自身の息子までが、その中にいる。
彼らは「件」が「私」であることに気がついていない。
もし「私」が「件」になっていなかったら、「私」もまたこの群衆の一員になって、他を押しのけて「件」を追い詰めていたかもしれない。
そういうことが暗に示されていると私は感じた。
私の勝手な推測かもしれないが。
「件」を予言をするという妖怪につくりあげたのは群衆である。
その証拠に、当の「件」は予言を持ってはいない。
ささやかな希望
「私」は、かつて親しかった者たち、かつて尊敬した者たちの無遠慮な要求に晒されている。彼は、哀愁の荒野に立っている孤独な妖怪だ。
夕暮れの静寂の中で「件」という妖怪に生まれ変わり、夜が明けて恐ろしい数の群衆に取り巻かれ、その群衆が四散して静かな夕暮れが訪れる。
ほっと安堵した「件」に、ささやかな希望が生まれる。
そんな「件」の様子がユーモラスな哀感を交えて描かれている。
夕暮れで始まって、夕暮れで終わる。
終り際のささやかな希望。
記憶の中の人間たちにお別れをして、夕日を背負って荒野をさすらう。
気弱で孤独でヒューマンな妖怪の物語。
内田百閒の「件」を読んで、私はそんな妖怪を思い浮かべた。