内田百閒の短篇小説「短夜」について
内田百閒の短篇小説「短夜」が収録されている文庫本。 |
「かみそり狐」というキーワードでネット検索すると、福島県や鳥取県の民話がヒットする。
それぞれの地域に伝わる民話の共通点は、おおよそ以下の通りである。
村の若者が、村人をだます狐をこらしめてやろうと出かける。
若者は、狐が人をだます現場をおさえる。
そうして結局は狐にだまされてしまい、気がつくと若者の頭は、狐に髪の毛を食いちぎられて血だらけの丸坊主になっていた。
内田百閒の「短夜」は、この民話を素材にして描かれている。
いわば、和歌の「本歌取り」のような描き方である。
小説の題名の「短夜(みじかよ)」は、夏の季語になっている。
明けるのが早い、短い夏の夜を表している。
高浜虚子の「短夜や夢も現も同じこと」という句が有名だ。
内田百閒の「短夜」は、まさに夢と現の混在状態のような、夏の夜の物語と言っていいだろう。
現代に伝わっている民話や昔話は、口伝によって代々語り継がれていたものを「文字化」したものがほとんどである。
口伝の「かみそり狐」と、文字化された絵本の「かみそり狐」では、受け取る側の印象の違いは明らか。
口伝は、語り手の声の抑揚とか身振り手振りとか顔の表情の変化とかの立体的な演出のせいで、真に迫った迫力感のある内容になる。
絵本では、絵によるイメージの広がりはあるものの、迫力感は口伝には及ばない。
口伝を文字にすると、民話や昔話が持っているダイナミックさが委縮してしまうのかもしれない。
内田百閒の「短夜」は文字による表現であるが、作家は口伝の迫力感を紙面に現出させようとしているように思われる。
私は狐のばけるところを見届けようと思って、うちを出た。暗い晩で風がふいていた。上記の書き出しで「短夜」は始まる。
絵本は「昔あるところに〇〇という若者がいた」というような始まりが多い。
いわゆる三人称で書かれた読物であるのに対して、「短夜」は「私」という主人公が「私」の体験を語るという「告白体」。
読者は、主人公の告白に合わせて主人公の視線を追う。
そして、ダイレクトに物語世界を体験する。
主人公の心情が、直に読者に伝わってきて、読者は物語の世界に引き込まれるのである。
「私」は、藪の中から出た狐が女に化け、木の葉や草の葉で人間の赤ん坊を作るところを目撃する。
その狐が化けた女を、女の義理の母親の家で問い詰め、「私」は女が抱いていた赤ん坊を死なせてしまう。
松葉を燻して赤ん坊に浴びせて、赤ん坊が葉っぱの塊であることを証明しようととしたのだが、赤ん坊は人間の姿のまま息が詰まって死んでしまう。
赤ん坊が死んだのを見て「私」は、今までの勢いはどこへやら、意気消沈。
けれども、こうして赤ん坊が死んでしまい、狐だと思った女はその為に気絶したのだから、私はもう何とも申し訳が立たなくなった。
狐をこらしめようとした「私」は、殺人者になってしまう。
読者もまた「私」は大変な間違いを犯したと動揺する。
「私」は、狐に騙されて人を殺してしまったのだ。
「私」の視線と読者の視線がひとつになって、読者は「私」の身の上を案じるのである。
そうしているうちに川舟に乗った男たちが、女の義理の母親の家に集まってくる。
男たちの中に交じっていた山寺の住職の申し出で、「私」は、住職の手に預けられることになって、山寺に向かう。
住職のおかげで、ひとまず急場をしのいだ形になったのだ。
この物語は、「驚愕」と「安堵」が波のように交互に押し寄せながら進んでいるように思われる。
- 驚愕:50~60匹の大きな蛍の群れや、池の中の大きな鯉の出現に驚く「私」。
- 安堵:女の正体が狐であることを見破って得意になっている「私」
- 驚愕:赤ん坊を殺して途方に暮れる「私」。
- 安堵:住職がその場をおさめてくれたので、有難い気分になった「私」
まるで真に迫った語り部の話を聞いているような気分になるのではなかろうか。
さてこの次に、どんな「驚愕」が待っていることか。
「私」の驚愕や恐怖は、山の上に至って、読者の驚愕や恐怖と重なる。
作家が、「私」に語らせる口伝のダイナミックな結末。
百鬼夜行の「短夜」はこうして明けたのだった。
と、ネタバレはここまで。
あとは、読んでのお楽しみだ。
色文字部分:小説からの抜粋
参考文献:ちくま文庫 内田百閒集成3 「冥途」内「短夜」