雑談散歩

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内田百閒の短篇小説「流木」を読んだ感想

内田百閒集成3「冥途」の中の「流木」のページ。

子どもっぽい

ブログ運営者が中学生だった頃、こういう子は確かにいた。
意地が悪くて、なにかというと人を泥棒呼ばわりする子。
小狡そうな小さい目のついた大きな顔まで思い出してしまった。

そういえば、「私」という男も、どことなく子どもっぽい。
道で、十円札が一枚はいった蝦蟇口(がまぐち)を拾ったためにビクビクしている。
警察に届けようとするが、警察署に着くまでに、自分に泥棒の疑いがかかって捕まりはしないかと心配している。
まるで、小心な子どものようである。
蝦蟇口を拾わなければ良かったと後悔しはじめている。

ちなみに、内田百閒の「流木」は大正十年の刊行となっている。
某銀行のホームページによると、大正時代の一円は、現在(令和五年)では、四千円程度の価値があるとされている。
なので、十円は約四万円相当である。
大正時代に十円あれば、家族でかなり豪華な食事ができる。
そんな考えが「私」の頭をよぎったことだろう。

不安と安堵と哀愁

そんな「私」は、警察署へ向かう途上、洋服を着た男に後ろから呼び止められる。
この男は、どうやら「私」が蝦蟇口を拾ったところを見ていたらしい。
「私」は、洋服の男が、「私が拾った蝦蟇口」を奪おうとしているのではないかと思い、駆け出す。
「私」は拾ったお金が惜しくなって、警察へ届けずに、自分のものにしようと決める。
すると、その男も駆け出して「私」を追いかけ、大きな声で「泥棒泥棒」と叫ぶ。
意地が悪くて、小狡そうな男である。

当ブログ運営者に、子どもの頃を思い出させたシーンである。

夢中で逃げたら、いつの間にか、追いかけてくる男の姿は消えていた。
それでも、あの男がどこかから「私」を見ているかもしれない。
「私」は身を隠す場所を探して、土手にたどり着く。

土手を走って気がつくと、土手は砂利でできていて、「私」は細かい砂利に足をとられて、だんだん川のほうへ滑り落ちていく。
川は狭いけれども淵になっていて深そうである。

脱しようともがいたが、もがけばもがくほど滑り落ちる。
すると、偶然流木の株に足がかかって、「私」の滑落が止まる。
川には転落しないで済んだが、蟻地獄のような土手の斜面で身動きができない状態である。
小説「流木」は、以下の文章で閉じられている。
私は身動きもせずに、じっとしていた。そうしたら涙がにじみ出した。私は泥棒になってしまった。内には妻も子もあるのにと思ったら、咽喉から込み上げる様に大きな声が出て来た。私は泣き泣き又そっと蝦蟇口の中を開けて見た。
不安と安堵と、ちょっぴり哀愁。
川の深い淵を前にして身動きできない不安と、蝦蟇口の中の十円札を自分のものにした安堵感。
危険な状態なのに、蝦蟇口のなかの十円札を確かめる。
お金で苦労している「私」の哀愁。

小説のタイトルになっている「流木」は、「棗の木」と違い、最後に登場している。
はたして「私」はこの状態から脱することができるのか。

ブログ運営者の空想

余談だが、この短編小説を読み終えたとき、芭蕉の句が思い浮かんだ。

古池や蛙飛び込む水の音

蝦蟇口の蝦蟇はガマガエル(ヒキガエル)のことである。
ガマガエルは水辺から離れた場所でも暮らしていけるが、繁殖の際には水辺を必要とする生物。
水辺とまるっきりつながりがないわけではない。
淵は、川の中で水の流れがよどんでいる場所で、どんよりとした古池を連想させる。

池のような淵に蝦蟇口を握りしめた「私」が転落して、大きな水の音をたてる。
水の音がまだ聞こえないのは、流木に足をかけているから。

その流木は、漂流者の骨を連想させる。
「私」は、土手の蟻地獄から抜け出せないと、漂流者となって、流木のように人知れず白骨化してしまうかもしれない。
だから「私」は、残された家族のことを思い泣いているのだ。
豪華な食事を喜ぶ子どもの顔を見ることもできない。

と、ここまで空想すると、「古池や蛙飛び込む水の音」の句は、ずいぶんと緊迫した様相をおびてくる。

余談だが。



色文字部分:小説からの抜粋
参考文献:ちくま文庫 内田百閒集成3 「冥途」内「流木」
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