雑談散歩

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芥川龍之介の短篇小説「蜘蛛の糸」を読んだ感想

机に向かっている芥川龍之介のイラスト(作:ブログ運営者)。

極楽にお釈迦様?

芥川龍之介の「トロッコ」を再読したついでに「蜘蛛の糸」も読んでみた。
初めて読んだ小学生の頃より60年近く経っている。
半世紀を過ぎての、小説との「再会」である。

読んでみて驚いたことは、極楽にお釈迦様がいらっしゃるということ。
無信心な私でも、70年も生きていれば、浄土信仰では極楽にいらっしゃるのは阿弥陀様であることぐらいは知っている。

芥川龍之介は、26歳の時に「蜘蛛の糸」を発表した。
極楽浄土に関心を持つにはまだ若いとは言え、情報収集能力に優れた芥川龍之介に一般的な知識が欠けていたとは思われない。

「蜘蛛の糸」は、児童文学者である鈴木三重吉の要請を受けて、文芸雑誌「赤い鳥」に発表された児童向け読物。
そのために子どもたちになじみの少ない阿弥陀様よりも、親しみの多いお釈迦様を極楽の主として採用したとも考えられるが。
それにしても信仰世界の「決まり事」を無視してまで子どものご機嫌をうかがうだろうか?

おそらく芥川龍之介は、良い子を育てる「信仰物語」を描いたのではないだろう。
阿弥陀様という極楽の主についての確認を怠ったのは、「信仰物語」には関心が無かったためではあるまいか?
あるいは、芥川龍之介の審美眼が、極楽の主はお釈迦様であらねばならないとしたのであろうか。

丁寧なナレーターの伏線

そういえば、「蜘蛛の糸」の実況中継をする丁寧なナレーター(語り)は何者なのか。
お釈迦様についても語っているのだから、お釈迦様でないことは確かである。
役割としては、お釈迦様の代弁者のようである。
丁寧で礼儀正しく優しい物言いは、争いや穢れのない極楽浄土の清浄さを物語っていると思われる。
「善」の世界とはこういうものだと、芥川龍之介が子どもたちに示しているようでもあるが、そこに伏線がないとは言えない。

元ネタ

さて、「蜘蛛の糸」の元ネタは、ポール・ケイラスというアメリカで活躍した東洋学者の「カルマ」という説話作品であると、「教材として芥川龍之介作『蜘蛛の糸』の作品論(小出良幸・高橋舞 共著)」で述べられている。
「カルマ」を翻訳して日本に紹介したのは仏教学者の鈴木大拙で、「カルマ」のなかの「因果の小車」という説話が「蜘蛛の糸」の元ネタであるとしている。
犍陀多(カンダタ)という盗賊の名も鈴木大拙訳「因果の小車」からの「拝借」であるらしい。

芥川龍之介は、優れた情報収集能力で元ネタを見つけ、巧みに加工し、秀でた文章力で読者を魅了する。
その結果、教科書に採用され、「蜘蛛の糸」は名作として日本全国に知れ渡ったのである。

対比的な世界

では、物語の世界を散策してみよう。
主な登場人物は、お釈迦様とカンダタである。
そして、二人の活発な動きを追って実況中継をするナレーター。
読者は、このナレーターのキモ過ぎるぐらい優しい語りかけに耳を傾けながら、登場人物の行動をイメージで追うことになる。

物語には対比的なふたつの池が登場する。
極楽を象徴する「蓮池」と地獄を象徴する「血の池」。
このふたつの池の対比の鮮やかさは、目もくらむばかりである。

登場人物もまた対比的である。
「善」のトップであるお釈迦様と「悪」の代表的な存在であるカンダタ。
二つの世界と二人の人物をつないでいるのは、キラキラ光る美しい蜘蛛の糸。
美しい世界から無残な世界へ下ろされた蜘蛛の糸である。

教育的な童話?

絵本的なイメージで描かれた「勧善懲悪」の世界をつないでいる救いの糸が、まさに救いようのない「悪」の手によって断ち切られる。
これが、芥川龍之介が描いた教育的な童話の世界。
文部省推薦(文部科学省推薦)の「因果応報」物語となっている。

だが、「蜘蛛の糸」はそれだけでは終わらない。
この物語には、決して児童には読み取れない第三の世界が描かれている、と考えるのはブログ運営者だけであろうか。
地獄でもなく極楽でもない「憂き世」の苦悩が描かれていると私は感じている。
地獄と極楽に挟まれて浮いている「蜘蛛の糸の世界」が「憂き世」を示している。

憂き世の世界

気紛れなお釈迦様がカンダタを導いたのは、いつ地獄に落ちるやもしれない「憂き世」なのではあるまいか。
気紛れなカンダタが、蜘蛛を踏みつぶさなかった「憂き世」。
お釈迦様はカンダタに、今一度「この世」を体験させたのである。

カンダタは蜘蛛の糸をよじ登りながら、「憂き世」の一人として苦悩し、報われない思いを喚き散らして、無残な世界へ落下したのである。
それが、キモ過ぎるくらい丁寧なナレーターが、裏で語っているもうひとつの物語なのではと私は感じている。

サブリミナル・メッセージ

極楽には、朝からお昼へと平穏な時間の流れがある。
その平穏さが輝いて見える。
地獄は、永遠の暗闇の世界であり、子どもにとっては恐怖の世界である。
絵画的な光と闇のメルヘン的世界に、子どもたちの視線は捕捉される。
その子どもの童話に、目立たないように大人の現実を挿入する。
芥川龍之介は、善と悪の境界領域の隙間に、蜘蛛の糸のような細い「憂き世」を挿入した。
まるでサブリミナル・メッセージのように。

夢破れた凡人の姿

「この糸に縋(すが)りついて、どこまでものぼって行けば、きっと地獄からぬけ出せるのに相違ございません。いや、うまく行くと、極楽へはいる事さえも出来ましょう」という「憂き世」の願望。
「ところがふと気がつきますと、蜘蛛の糸の下の方には、数限(かずかぎり)もない罪人たちが、自分ののぼった後をつけて、まるで蟻ありの行列のように、やはり上へ上へ一心によじのぼって来るではございませんか」という「憂き世」の失望に変わる「蜘蛛の糸の世界」。

芥川龍之介は小説「蜘蛛の糸」で、夢の国の善人でも悪人でもなく、「憂き世」で喘いでいる凡人を描いたのではあるまいか。


色文字部分:小説「蜘蛛の糸」からの抜粋

参考文献
芥川龍之介「蜘蛛の糸」 青空文庫 えあ草紙 
小出良幸・高橋舞 共著「教材として芥川龍之介作『蜘蛛の糸』の作品論」 こども発達学科研究報告 教師教育研究(こども発達学科10周年記念特別号) 札幌学院大学

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