雑談散歩

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太宰治の「富嶽百景」を読んだ感想

和服姿の太宰治のイラスト(作:ブログ運営者)

金子光晴の富士

1944年、詩人の金子光晴のひとり息子である乾(けん)に召集令状が届く。
それを機に、金子家の親子三人は山中湖の湖畔に逃避する。
心の赴くままに生きたとされている反戦・反骨の詩人金子光晴は、山中湖で「富士」という詩を作っている。

その詩の最終部は以下のようになっている。

雨はやんでいる。
息子のいないうつろな空に
なんだ。くそおもしろくもない
洗いざらした浴衣(ゆかた)のような
富士。

(金子光晴詩集「蛾」所収「富士」より抜粋)

日本を表すメタファーとしてよく使われていたであろう富士山は 、その当時の軍国主義の象徴のひとつであったに違いない。
それに対する一庶民としての、金子光晴の嫌悪感がこの詩ににじみ出ている。

金子光晴と三千代夫人は、息子の徴兵を避けるために、共謀して息子の体調を損なおうと試みる。
たとえば、部屋に閉じ込めて「松葉いぶし」で喘息発作を誘発させたり。
それが成功して、乾は徴兵を免れて終戦を迎えた。

月見草

金子光晴の山中湖逃避より6年前の1938年、太宰治は富士山の麓の御坂峠の茶屋に宿泊して仕事に打ち込んだ。
その滞在の様子を描いたのが小説「富嶽百景」である。

当ブログ運営者は「富嶽百景」を20代の後半に読んだ。
このところ「トロッコ」「蜘蛛の糸」の再読がつづいているので、昔を懐かしんで「富嶽百景」も再読してみたのである。

記憶に残っているのは「三七七八米の富士の山と、立派に相対峙(あひたいぢ)し、みぢんもゆるがず、なんと言ふのか、金剛力草とでも言ひたいくらゐ、けなげにすつくと立つてゐたあの月見草は、よかつた。富士には、月見草がよく似合ふ。」というシーンである。

本来の月見草(ツキミソウ)は、花の色が白ないし薄いピンク色である。
「富嶽百景」には「黄金色の月見草」とあるので、おそらくマツヨイグサ(通称月見草)のことであると思われる。
マツヨイグサやオオマツヨイグサは、南米産の帰化植物で、空き地などで群がって生育している。
いわば雑草あつかいの草であるが、黄色い花は鑑賞に堪える可憐さを持っている。

その雑草扱いの可憐な花が、富士に似合うとはどういうことなのだろう。

時代背景

太宰治が御坂峠の茶屋に籠った1938年は、5月に「国家総動員法」が施行され、日本軍が徐州を占領している。
軍国主義国家は、「従軍作家」を組織して、作家たちを戦争に協力させた。
日本が「太平洋戦争」へと歩んでいった時代。
そういう時代に「富嶽百景」は書かれている。

古来より霊峰と崇められていた富士山が、戦意高揚のプロパガンダに利用されたであろうことは容易に想像できる。
そんな富士山の扱われ方に、太宰治は、6年後の金子光晴が抱いたような不快な思いの「端緒」を感じていたのではあるまいか。

当時、国外への軍事進出を支える精神論の象徴のひとつになっていたであろう「富士」を、太宰治は、自然で素朴な庶民感覚にこそふさわしい山であると暗に示したのだ。
時流に従えば「富士には、桜がよく似合う」という文句になるかもしれないが。
太宰治は時流とは違う方を見ていた。

それが「富士には、月見草がよく似合ふ」という表現を生んだのだとブログ運営者は密かに思っている。

自然の精神

「密かに」とは、「富嶽百景」には「富士が日本の軍国主義や国粋的な美意識の象徴になっているからつまらない」という意味の記述はいっさい無いからである。

「密かに」はブログ運営者の思い過ごしであるかもしれないという「密かに」なのだ。

同時期に書かれた太宰治の「富士に就いて」という小文に、峠に滞在している当時の心情の一端が述べられている。
その一文で、富士について「人間に無関心な自然の精神、自然の宗教、そのようなものが、美しい風景にもやはり絶対に必要である」と力説している。

富士が「白扇さかしま」と漢詩で形容され、それがお座敷芸の詩吟で流布しているのが、太宰治には「不服」でならない。

「白扇さかしま」のお座敷芸は、汗水たらして働かねばならない庶民には無縁の遊びと言えるだろう。
同様に、富士を俗っぽく持ち上げる風潮も、「私」には「不服」でならない。

太宰治は、「人間に無関心な自然の精神」として月見草を見、「俗に無関心な自然の精神」を有している庶民にあこがれているのではなかろうか。
ブログ運営者は、そう思いたい。

太宰治は「富士に就いて」の締め括り部分で以下のように述べている。
富士は、熔岩の山である。あかつきの富士を見るがいい。こぶだらけの山肌が朝日を受けて、あかがね色に光っている。私は、かえって、そのような富士の姿に、崇高を覚え、天下第一を感ずる。
(太宰治「富士に就いて」より抜粋)
「こぶだらけの山肌が朝日を受けて、あかがね色に光っている」という文言は、そのまま庶民の姿に投影できる表現ではあるまいか。

俗な宣伝

「富嶽百景」の始まりの部分に以下の文章がある。

ニツポンのフジヤマを、あらかじめ憧(あこがれ)てゐるからこそ、ワンダフルなのであつて、さうでなくて、そのやうな俗な宣伝を、一さい知らず、素朴な、純粋の、うつろな心に、果して、どれだけ訴へ得るか、そのことになると、多少、心細い山である。

作者は、富士に仮託した当時の精神論なども「俗な宣伝」として、密かにひと括りにしているのではあるまいか。

「富獄百景」には、「私(太宰治)」も含めて、「俗な宣伝」からほど遠いと思われる、素朴で純粋な心を持った人たちの、富士に対する感慨が「自然の精神」として強調されているように思われる。

富士を眺める人たち

その様々な人達は、皆、善人である。
御坂峠を通り過ぎる人たち。
富士山の麓で暮らす人たち。
「私」が甲府の町で見合いした娘さんと、その母親。

「富嶽百景」にはそういう人たちのそれぞれの暮らしから眺める富士が描かれている。
庶民が、それぞれの庶民的な暮らしの中で、富士を眺め、ときとして富士に勇気づけられている。

「私」は御坂峠に来てから、いろいろな場所で、いろいろな時間帯に、いろいろな心境で富士を眺めている。
東京のアパートで見た富士は一様であった。
だが、御坂峠に来てからは、俗っぽい富士も見たが、青く燃えているような美しい富士、大親分のような頼もしい富士も見た。

そんな多様な富士の姿が「私」の目に映る。
その富士の姿に対する印象は、周囲の人たちと同一であったり、別のものであったりする。

表現者として眺める富士

以下には、表現者として見る富士のことが綴られている。
素朴な、自然のもの、従つて簡潔な鮮明なもの、そいつをさつと一挙動で掴まへて、そのままに紙にうつしとること、それより他には無いと思ひ、さう思ふときには、眼前の富士の姿も、別な意味をもつて目にうつる。この姿は、この表現は、結局、私の考へてゐる「単一表現」の美しさなのかも知れない、と少し富士に妥協しかけて、けれどもやはりどこかこの富士の、あまりにも棒状の素朴には閉口して居るところもあり、これがいいなら、ほていさまの置物だつていい筈だ、ほていさまの置物は、どうにも我慢できない、あんなもの、とても、いい表現とは思へない、この富士の姿も、やはりどこか間違つてゐる、これは違ふ、と再び思ひまどふのである。

作者(太宰治)は現実の富士を眺めながら、自身の表現の方法として「虚構の富士」に目を奪われかける。

「単一表現」
とは、素朴な、自然のもの、従つて簡潔な鮮明なもの、そいつをさつと一挙動で掴まへて、そのままに紙にうつしとる」ということ。
それは、太宰治が模索している新しい表現の方法を示唆しているのかもしれない。

『単一表現』の美しさ」とは、「富士が青白く、水の精みたいな姿で立つてゐる」ような美しさであると「虚構の富士」に見とれ。
だが、すぐに現実に立ち返り、富士の姿に「我慢できない」ものを感じてしまう。

そこには、御坂峠の茶屋というお伽噺のような場所から、「私」にとっての幻想世界の富士と「俗な宣伝」をまとった富士と、「素朴な自然のもの」の富士を見比べている「私」がいる。

「ほていさまの置物」は偶像崇拝であり、富士を神国日本の象徴として崇め盲信するのに似ていることを、ここでも作者は暗に示していると思われる。

そして作者は「この富士の姿も、やはりどこか間違つてゐる」と思いまどう。
「どこかこの富士の、あまりにも棒状の素朴には閉口して」しまう。

おそらく太宰治は「自然主義文学」に対して閉口していたのかも知れない。
現実の模倣よりも、もっと素朴で美しい虚構にたいする憬れを、「御坂峠の富士」を契機に、自分の「芸術の世界」に実現しようとしているようにも思われる。
茶屋の娘もおかみさんも、太宰治の虚構の世界の住人なのではなかろうかと思えるほど。

去り際のセリフ

本格的な冬になって、御坂峠を去る時がきた。
御坂峠に来てからは、嫌になるほど見た富士であったが、去り際に太宰治は富士山に礼を言う。
ちょっと前に、茶屋の二階から不幸な遊女たちを見下ろしたとき「おい、こいつらを、よろしく頼むぜ」と大親分のような富士にお願いしたように。
富士山、さやうなら、お世話になりました。

キザでもなくやくざっぽくもない。
この一言に、読者は、ほっと胸をなでおろす。
良かった良かったと、ほろりと涙ぐむ。
甲府の娘さんとの結婚話も、まとまって良かったと、自分事のように安堵する。

この一言で、太宰治は、富士から「俗な宣伝」を取り除いて、「自然主義文学」的表現で、素朴な富士を描いてみせたのである。

そんな富士に富士山、さやうなら、お世話になりました。」と別れを告げた。
太宰治は、1935年の「道化の華」では見えなかった富士を、飽きるほど見て、その富士に別れを告げたのである。

下界へ

時流をお手本とした「富士山の扱われ方・扱い方」に、太宰治は、6年後の金子光晴が感じたような不快な思いを抱いていたことだろう。

未来の金子光晴の富士に対する思いはストレートなものだった。
しかし、ダンディズムを標榜し、「我慢できない」俗世間と、自分との精神的対立に思ひまどふ」太宰治は、もっと複雑だったに違いない。
「富嶽百景」の一見明るい文面とは裏腹に、太宰治は富士山に「虚しさ」を感じていたに違いない。

善人の代表的な存在である峠の宿の娘さんとおかみさん。
井伏鱒二と登った三ツ峠の山頂で、霧の中に写真を掲げて富士を見せてくれた茶店の老婆。
この人たちの期待を裏ぎって、太宰治は虚無の富士を描かねばならない。

「富嶽百景」の印象は、山を下りたとたんにガラリと変わる。
山を下りた翌朝に、甲府の安宿の欄干にもたれて富士を見て、「酸漿(ほほづき)に似てゐた」と「私」は思う。

それは、御坂峠で眺めたどの富士よりも異様である。
青白く美しくそびえていた富士が、赤黒く萎んでしまった感が否めない。

朝焼けで赤く染まった富士を指しているのだろうが、虚無的な雰囲気が濃厚に漂っていると感じるのは、当ブログ運営者だけだろうか。

太宰治が甲府で怪異な富士を見た翌年の1939年に、ノモンハン事件が起き、9月には欧州で第二次世界大戦が起きている。

もはや富士は素朴な、純粋の、うつろな心」の庶民から離れて、君臨する観念の山になりつつあるのかもしれない。


色文字部分:小説「富嶽百景」からの抜粋

参考文献
福永勝也「反骨、離群、そして抵抗の詩人、金子光晴のパリ漂遊と『ねむれ巴里』」 京都学園大学学術リポジトリ

太宰治「富士に就いて」 青空文庫
太宰治「富嶽百景」 青空文庫 えあ草紙 

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