雑談散歩

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内田百閒の小説「山高帽子」を読んだ感想

山高帽子をかぶった内田百閒のイラスト(作:ブログ運営者)。

内田百閒の「山高帽子」は、昭和4年6月に中央公論に発表された小説である。

主な登場人物は、語り手である青地と、青地の友人の野口。
青地は、陸軍の学校で語学の教官をしている。
彼は、自身の精神状態を、健全ではないように感じながら不安な日々を送っている。
幻聴を聞いたり、自分の身の回りに「何か」の存在を感じたりして、その不安を募らせている。

友人の野口は、青地のことを「こわい」とか「あぶない」とか「気違い」の傾向があるとか、青地と顔をあわせるたびに口に出す。
今にも狂いだすのではないかと、青地に忠告する野口。
そうやって野口が青地をおどすのは、野口自身が自身の精神の変調を恐れているからだと、青地は感じている。

青地は、最近の野口の生気の無い表情や、睡眠薬を多量に服用していることが心配でならない。
野口の様子を普通ではないと思っていたが、青地は野口が自殺することを想像もしていなかった。

野口の自殺の知らせを聞いた時、青地はなにも考えられなかった。
ただ自身の悪夢に「一層恐ろしい陰の加わった事を他人事のように」感じただけだった。

野口には、不安や恐れと自殺が結びついていたようだが、青地はそうではなかった。
段々と陰を濃くしていく自身の不安を、青地は、そんなものは放っておけば良いと思っていたようである。
以前野口に「君には自殺する勇気もないし」と言われたとき青地は「勇気もなさそうだが、どうせ死ぬにきまってるんだから、ほうって置けばいい」と言っている。

ここでタネ明かしをすれば、青地のモデルは内田百閒で、野口のモデルは内田百閒の畏友の芥川龍之介である。
内田百閒が昭和26年4月に「小説新潮」に発表した「亀鳴くや」に書かれているシーンは、「山高帽子」のシーンと同一のものが多く、「亀鳴くや」には芥川龍之介が実名で登場している。

「亀鳴くや」で内田百閒は、芥川龍之介の自殺を以下のように書いている。

芥川君が自殺した夏は大変な暑さで、それが何日も続き、息が出来ない様であった。余り暑いので死んでしまったのだと考え、又それでいいのだと思った。原因や理由がいろいろあっても、それはそれで、矢っ張り非常な暑さであったから、芥川は死んでしまった。(「亀鳴くや」より引用)

自殺の原因や理由は本人にしかわからないし、もしかしたら本人にもわからないかもしれない。
もし、どうしても原因や理由が必要なら、あまりにも暑かったからだ。
原因や理由を解き明かしたところで、芥川龍之介が生き返るわけではない。
人間は、どうせいつかは死ぬのだから、放って置けばいい。
というのが内田百閒の思いではないかとブログ運営者は感じている。

内田百閒は山高帽子については「亀鳴くや」に以下のように書いている。
私は山高帽子が好きで、何処へ行くにも山高帽子をかぶって出かけた。仕舞には詰襟の洋服を着て山高帽子をかぶっていたので、今から考えると少しおかしかったかも知れない。しかし自分ではそうも思わなかった様である。だから平気でその格好で人を訪ねたりした。それがどう云うものか、芥川には非常に気になったらしく、人の顔を見るといつでも、君はこわいよ、こわいよと云った。(「亀鳴くや」より引用)
芥川龍之介が内田百閒の山高帽子姿を、どういう訳で「君はこわいよ」と言ったのか、それは「山高帽子」にも「亀鳴くや」にも明かされていない。

たぶん、芥川龍之介の目には、内田百閒の山高帽子姿が、不気味で異様な風体に見えたのだろう。
この男は、いつ発狂してもおかしくはない。
内田百閒の頭にのった山高帽子を、発狂や、ひょっとしたら死神のシンボルのように思っていたのかもしれない。
だが、内田百閒は発狂せずに、芥川龍之介は自殺した。

発狂者を演ずることはできるが、自殺者を演ずることはできない。
小説「山高帽子」は、いくつかのエピソードで成っている。
そのエピソードのなかに、青地が発狂者を演じたシーンがある。

青地が、祖母の墓参りをやめて、森の中の料理屋に入ったときのこと。
女中に「お一人ですか」と訊ねられて、居もしない連れがあたかもそばに居るように「そこにいるじゃないか」と応えて、女中を気味悪がらせた。

また、学校の食堂が混んでいたとき、隣に並んでいた男に「君の腕を食いそうだ」と言ったりした。

青地が冗談を言っても、周囲の人間は、それを冗談とは思っていないということを、青地は感じている。
でも、青地は冗談を控えようとは思っていなかった。

そういうところが、野口を怖がらせているようだ。
野口は青地を友人達に紹介するとき、自分の書いたものに変な傾向があるとしたら、それは青地の影響なのだと言っている。
そして、青地は平気そうだが、自分(野口)が怪しくなりそうだとも言っている。

山高帽子をかぶることは、青地を狂人ではないかと疑わせる行為であると、青地に「李下の冠瓜田の履」を例にとって忠告している。
それに対して青地は、それを承知の上でわざとやることだってあると応える。
青地には野口の心配を面白がっているようなところがある。

青地は、狂人ではないかという疑念の目を、自身に向けられることを恐怖に感じている面もある。
そのうちに、人々から合点のいかない扱いを受けそうだと懸念している。

だが一方では、人に何と思われてもかまわないとも考えている。
わざと狂人の真似をして、人を驚かしてやろうかと思っている。
そんな青地の様子を見て野口が気味悪がる姿を想像すると、青地は可笑しくてたまらない。

いつのまにか山高帽子は、青地と野口の「狂人論争」には欠かせない小道具となっている。
野口の山高帽子に対する拒否反応が増せば増すほど、青地は山高帽子をかぶることが多くなるような傾向があるとブログ運営者は感じている。

小説「山高帽子」には、青地の心を不安にさせているいろいろなエピソードが書かれている。
それらの「声」や「何かの存在」は、幻聴や錯覚で説明のつくものであった。

ただ、野口の自殺だけは、まぎれもない現実の出来事である。
青地は野口の自殺について、以下のように述べている。
ただ私の長い悪夢に、一層恐ろしい陰の加わった事を他人事のように感じただけだった。
もしかしたら、青地が感じていた「何かの存在」とは、見知らぬ自身の存在だったのではあるまいか。
見知らぬ「私」自身の不安の果てに野口の自殺があったとしたら、見知らぬ「私」の悪夢を「私」は他人事のように感じるだけである。
ブログ運営者はそう空想した。
はたして山高帽子をかぶっていたのは、「私」だったのか、見知らぬ「私」だったのか。

山高帽子をかぶった内田百閒は、どういう風に見えるのだろう。
そう思って、内田百閒の画像をインターネットで探したが、山高帽子をかぶった写真は見つからなかった。

中折帽をかぶって女性と同伴している谷崎潤一郎の写真や、紙巻煙草をくわえて麦わら帽子をかぶった芥川龍之介の写真はあったが、山高帽子をかぶった内田百閒の写真は、ついに見つからなかった。
Wikipediaの「山高帽」のページには、山高帽がトレードマークとして知られる著名人として、ムッソリーニやチャップリンとともに内田百閒の名が上がっているのに。

お気に入りの山高帽子をかぶった仏頂面の写真が、一枚ぐらいインターネットに出ていても良さそうなものだが。

一枚もないのは不思議な気がした。
これこそが怪異ではなかろうか?

色文字部分:小説「山高帽子」からの抜粋

参考文献
ちくま文庫 内田百閒集成3 「冥途」に収録の「山高帽子」
ちくま文庫 「名短篇ほりだしもの」に収録の「亀鳴くや」
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