谷崎潤一郎の短篇小説「私」を読んだ感想
旧制第一高等学校本館(1902年)国立国会図書館デジタルコレクションより。 |
「私」は、谷崎潤一郎が大正10年に総合雑誌「改造」に発表した小説である。
この小説は、旧制第一高等学校の学生寮で頻発しているという盗難事件を題材としている。
その盗難事件について、ひとりの寮生が語りながら真相を明らかにしていくという筋立てになっている。
語り手である「私」は、盗っ人の気持ちを、以下のように考えている。
思ふにぬすツとが普通の人種と違ふ所以は、彼の犯罪行為その物に存するのではなく、犯罪行為を何とかして隠さうとし、或は自分でも成るべくそれを忘れて居ようとする心の努力、決して人には打ち明けられない不断の憂慮、それが彼を知らず識らず暗黒な気持に導くのであらう。実は、「犯罪行為を何とかして隠さうとし、或は自分でも成るべくそれを忘れて居ようと」しているのは、語り手である「私」なのである。
だが「私」は、自身が犯人であると、読者に告白をしない。
「私」は、同室の平田という男に、自分が犯人であると疑われているのではないかと思い始め、「今の私は真の犯人が味ふと同じ煩悶、同じ孤独を味つて居るやうである」と読者にうそぶく。
「私」は、自身の考えを、以下のように読者に披露する。
それから又斯う云ふ事も考へられた。どんな善人でも多少の犯罪性があるものとすれば、「若し己が真の犯人だつたら、―――」といふ想像を起すのは私ばかりでないかも知れない。私が感じて居るやうな不快なり喜びなりを、こゝに居る三人も少しは感じて居るかも知れない。「こゝに居る三人」とは、「私」と同室の、平田、樋口、中村のことである。
「私」の長々とした弁説の目的は、読者を攪乱することであるらしい。
読者の疑いの目を感じつつ、読者の視線を逸らそうと、「私」は読者に対して見事な「告白」を試みる。
私が仮りに真のぬすツとだつたとしても、それの弊害はそれに附き纏ふさま/″\のイヤな気持に比べれば何でもない。誰も私をぬすツとだとは思ひたくないであらうし、ぬすツとである迄も確かにさうと極まる迄は、夢にもそんな事を信ぜずに附き合つて居たいであらう。そのくらゐでなければ我れ/\の友情は成り立ちはしない。そこで、友人の物を盗む罪よりも友情を傷ける罪の方が重いとすれば、私はぬすツとであつてもなくても、みんなに疑はれるやうな種を蒔いては済まない訳である。ぬすツとをするよりも余計に済まない訳である。この告白では、まず自分が盗っ人であるならば、と仮定している。
自分が盗っ人であることによって、友人たちに「イヤな気持」が引き起こされることが予想される。
そのような事態と比較すれば、自分が盗っ人であることなど何でもない、と言っているのである。
さらに「私」は、「友人の物を盗む罪よりも友情を傷ける罪の方が重いとすれば」と都合よく仮定を続け。
それは、盗みを働くよりももっと友人たちに申し訳ないと結論付けている。
この仮定的な物言いは「もし私が盗っ人であれば、友情関係が破綻する。私はそんなことを望んでいないので、私は犯人ではない」ということを強力に暗示している。
おそらくこの時点で読者は、「私」が犯人とは気づいていないだろうから、「じゃ、友人のものを盗むなよ」という感想は、持ちえない。
「私が若し賢明にして巧妙なぬすツとであるなら」とか「若し少しでも思ひやりのあり良心のあるぬすツとであるなら」という仮定の言葉を繰り返して、自身が「ぬすツと」ではないことを読者に印象付けようとしているのである。
この見事な「タラレバ」論の展開は、読者の心を揺するのに効果的である。
だが「私」は、この言葉の内容が正しいことも、我知らず読者に告げざるを得ない。
それは以下の事である。
「私」が技術的に優れている盗っ人なら、盗みが容易な学寮のなかで事を成さない。
友情に篤い盗っ人であるならば、寮仲間のものは盗まない。
実に「私」は、自分の盗癖を抑えきれず、それを実行する上で安易な現場を選ばざるを得ない未熟な盗っ人だったのである。
その証拠に、「私」を信じている同室の中村に慰められて「たとひ私がどんなぬすツとであらうとも、よもや此の人の物を盗むことは出来まい」と思ったはずだが、自分を弁護してくれている樋口や中村の金と洋書を盗んでしまう。
そしてついには、平田の机の引き出しから為替を盗む。
それを目撃していた平田は「私」を殴り、樋口や中村の前に「私」を盗っ人として突き出して以下のように言う。
これは「不明を謝す」と同義であると思われる。
「不明を謝す」とは、知識が不足で真実を見抜けないのも罪であるという考え方であるらしい。
騙す方も悪いが、騙される方にも罪があるという意味である。
平田は、以前から「私」を疑っていたので、自分に「不明の罪」は無いと言っているのだ。
これにたいして「私」は、「君たちは善良な人たちだが、しかし不明の罪はどうしても君たちにあるんだよ」と樋口や中村を責め、「平田君はごまかされない、此の人は確かにえらい!」と平田を褒め上げる。
ばれたらばれたで盗っ人である自分の罪を棚上げにして、他人の「不明の罪」を錦の御旗として掲げる。
これには樋口や中村も呆れ顔。
さらに、「僕はしかし、未だに君等に友情を持つて居るから忠告するんだが、此れからもないことぢやないし、よく気を付け給へ。ぬすツとを友達にしたのは何と云つても君たちの不明なんだ。そんな事では社会へ出てからが案じられるよ」と、自分が騙した相手を心配しつつ、あくまでも自身を擁護する構えである。
「私」は、ああ言われれば、その何倍の量でこう言い返して、風前の灯のような自尊心を守ろうとする。
小説の最終部分を読むと、「天下の学生達に羨ましがられる『一高』の秀才の一人」だった「私」が、その将来は大怪盗かと思いきや、相変わらず言い訳ばかりしている小盗人であるらしいことがわかる。
さらに「私」は、「友人の物を盗む罪よりも友情を傷ける罪の方が重いとすれば」と都合よく仮定を続け。
それは、盗みを働くよりももっと友人たちに申し訳ないと結論付けている。
この仮定的な物言いは「もし私が盗っ人であれば、友情関係が破綻する。私はそんなことを望んでいないので、私は犯人ではない」ということを強力に暗示している。
おそらくこの時点で読者は、「私」が犯人とは気づいていないだろうから、「じゃ、友人のものを盗むなよ」という感想は、持ちえない。
「私が若し賢明にして巧妙なぬすツとであるなら」とか「若し少しでも思ひやりのあり良心のあるぬすツとであるなら」という仮定の言葉を繰り返して、自身が「ぬすツと」ではないことを読者に印象付けようとしているのである。
この見事な「タラレバ」論の展開は、読者の心を揺するのに効果的である。
だが「私」は、この言葉の内容が正しいことも、我知らず読者に告げざるを得ない。
それは以下の事である。
「私」が技術的に優れている盗っ人なら、盗みが容易な学寮のなかで事を成さない。
友情に篤い盗っ人であるならば、寮仲間のものは盗まない。
実に「私」は、自分の盗癖を抑えきれず、それを実行する上で安易な現場を選ばざるを得ない未熟な盗っ人だったのである。
その証拠に、「私」を信じている同室の中村に慰められて「たとひ私がどんなぬすツとであらうとも、よもや此の人の物を盗むことは出来まい」と思ったはずだが、自分を弁護してくれている樋口や中村の金と洋書を盗んでしまう。
そしてついには、平田の机の引き出しから為替を盗む。
それを目撃していた平田は「私」を殴り、樋口や中村の前に「私」を盗っ人として突き出して以下のように言う。
おい君達、僕はぬすツとを掴まへて来たぜ、僕は不明の罪を謝する必要はないんだ。「不明の罪を謝する」って何だろう。
これは「不明を謝す」と同義であると思われる。
「不明を謝す」とは、知識が不足で真実を見抜けないのも罪であるという考え方であるらしい。
騙す方も悪いが、騙される方にも罪があるという意味である。
平田は、以前から「私」を疑っていたので、自分に「不明の罪」は無いと言っているのだ。
これにたいして「私」は、「君たちは善良な人たちだが、しかし不明の罪はどうしても君たちにあるんだよ」と樋口や中村を責め、「平田君はごまかされない、此の人は確かにえらい!」と平田を褒め上げる。
ばれたらばれたで盗っ人である自分の罪を棚上げにして、他人の「不明の罪」を錦の御旗として掲げる。
これには樋口や中村も呆れ顔。
さらに、「僕はしかし、未だに君等に友情を持つて居るから忠告するんだが、此れからもないことぢやないし、よく気を付け給へ。ぬすツとを友達にしたのは何と云つても君たちの不明なんだ。そんな事では社会へ出てからが案じられるよ」と、自分が騙した相手を心配しつつ、あくまでも自身を擁護する構えである。
「私」は、ああ言われれば、その何倍の量でこう言い返して、風前の灯のような自尊心を守ろうとする。
小説の最終部分を読むと、「天下の学生達に羨ましがられる『一高』の秀才の一人」だった「私」が、その将来は大怪盗かと思いきや、相変わらず言い訳ばかりしている小盗人であるらしいことがわかる。
そして最後まで読者に言いすがる姿を、作者の自虐的な仮装であろうと感じるのは、当ブログ運営者だけだろうか。
読者に対して高踏的であった小説「秘密」。
その「秘密」に描いてあるような、廃頽や悪戯の中に潜む「快楽」とは別の世界。
小説「私」は、盗っ人という生活者の、見事に利己的で多弁な「舌先三寸」を、生々しく描いた物語である。
その見事さゆえ、「不明の罪」には頷けるものを感じた次第である。
色文字部分:小説からの抜粋
参考文献:青空文庫 えあ草紙 谷崎潤一郎 「私」
参考文献:青空文庫 えあ草紙 谷崎潤一郎 「私」