雑談散歩

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自作ハードボイルド短篇小説「居酒屋」

居酒屋の赤提灯。

眠っていたのか、眠っていなかったのか。
布団の中で、一晩中、茫然としていたような気がする。
この受け入れがたい出来事は、夢ではないのだとぼんやりと思いながら。

隣の彼女は、静かに寝息をたてて眠っている。
そっと身体に触れたら、いつもの体温が指に伝わって来た。
ふたりとも生きているのだと、未明の暗闇の中で実感した。
今夜は月明りも星の光も見えない。
カーテンの隙間の向こうも闇だった。

戦争は、突然始まった。
起こるかもしれないという不安が、起こるはずは無いさという不確かな見込みの上で揺らいでいたのだが、すうーっと消えてしまった。
不安のなかに、まだ安らげる気持ちが残っていたのに。
ぼんやりとした不安に替わって、生々しい戦慄が体を揺さぶっている。

目をつぶれば、昨日の残像が、鮮明に迫ってくる。
だから一晩中眠らないで、重苦しい六畳間の暗闇を見続けていたのかも知れない。
時々、その闇が揺れるのは、恐怖に慄く気弱な心臓のせいだろう。



職場の同僚と、仕事の道具をダンプカーに積んで片づけていたのだった。
街の中の小さな工事現場が終わって、次の現場に向かおうとしていた。

突然、同僚が「ウワーッ」と叫び声をあげて、どこかへ走り去った。
頭上に異様な気配があった。
見上げると、いつの間にか小さな戦闘機の群れが、街の上空に押し寄せていた。
目で確かめた時、微かな爆音が耳に伝わってきた。
それは、工事現場の騒音よりも澄んで聞こえた。

四十数年生きてきたが、こんなに茫然とした気持ちで空を見上げたのは初めてだ。
「とうとう、始まったのか」
他人のようなかすれ声が、口から洩れた。

同僚の行方を探すよりも、空から目が離せなかった。
空が青いスクリーンのように見えた。
スクリーンの両側から戦闘機の大群が飛んできて、激しく交戦している。
炎に包まれ黒煙を出しながら、次々と墜落していく機影。

空中戦の最中に、大型旅客機が戦闘機に追われて迷い込んできた。
その旅客機が、煙を吐きながらこっちへ墜落してくる。
旅客機の白い腹が見る見る巨大になって、迫ってくる。

あわててダンプカーの陰に身を隠した。
目の前が真っ暗になって、こうやって死ぬのだなと思った。
だが旅客機は、頭上を過ぎて、離れた場所に激突した。
爆風とともに、飛散物がダンプカーを叩いた。
ダンプカーの陰にいたおかげで、小さなかすり傷程度で済んだ。

上空は騒然としていたが、街は静まり返っていた。
秋の早い夕暮れに、戦闘機がキラキラと輝いている。
それに比べて地上は、黒い墨を塗られたように暗かった。
道路を照らす街灯も消えたままだった。

西の空が黒い雲で覆われ出して、雲の隙間からオレンジ色の光が漏れている。
その光が、近くの公園の背の高い木の梢を赤く染めていた。
しかし、足元は暗くなる一方だった。
高い所に集まった光が、地上をより暗くしていた。

暗がりの中に人の姿が現れたり、暗がりに溶け込んだり。
街を行く人たちは、黙り込んだまま右往左往していた。

そんな通りを急ぎ足で抜けて、家へ向かった。
家と言っても、飲食店が並ぶ小路の奥にある居酒屋なのだが。
その二階で、女と暮らしていた。

一時間ほど歩いて、小路の入口に着いた。
小路の奥に、ひとつだけ赤提灯が灯っている。
小路の角にある焼鳥屋とその奥に並んでいるカラオケスナックやラーメン屋やオカマバーは閉まっていた。

居酒屋のガラス戸を開けると、カウンター席に背広姿の男がふたり。
店内に足を踏み入れると、一瞬、鋭い視線に射られた。
彼らはそれきり目をそらして、元の姿勢に戻ったようだった。

彼女が笑顔で「あら、早かったわね」と言った。
「どこか、やっているお店あった?」と聞いてきたので、「見た限りじゃ、明かりがついているのは、ここぐらいのもんだよ」と答えた。
「お昼前に普通に仕入れちゃったから、提灯を出しちゃった」
彼女は、変に明るい顔つきをして、そう言った。

「普通」という言葉が、遠い昔の言葉のように聞こえた。
とても懐かしい平穏な響きに感じられた。
思わず「普通っていいね」とつぶやいた。
「普通ほどいいものはないわよー」と彼女はしみじみとして言った。

若いほうの男が、頻繁に背後を通って戸口へ近づき、ガラス戸を開けて外の様子をうかがっている。
そのたびに首筋の筋肉が細かく震えるのが顎に伝わってきた。
歯がカクカクと鳴りそうだった。
冷や汗が背中を走る。
そんな思いをしている様子を、彼女は静かに見守っていた。
子どもをなだめる母親のような視線。

長い髪を栗色に染めて、和服に割烹着をつけて立っている姿は、堂々とした居酒屋の女将である。
常連の客たちからは「ママ」と呼ばれていた。
彼女の方が九つも若いくせに、妙に年上じみたところがあるのは、飲み屋商売が長いせいなのか。

男たちは、ふたりともがっしりした体格をしていて、その辺のサラリーマンには見えない。
アジア系の顔つきをしているが、日本人にも見えなかった。
人を小馬鹿にしたような、あからさまな殺気を放っている。

年配の男が立ち上がった。
若い男もそれに続いた。
ふたつの殺気が、後ろをゆっくりと過ぎていくのを背中が感じた。
背後の動きに備えて、膝の上に置いていた右手を上へとずらした。
「やられる」と思った瞬間、右腕の筋肉が収縮して拳を作っていた。

彼らはそのまま外へ出て行った。
カウンターには、手がつけられていないお通しとビールの入ったジョッキが残った。
溜息を吐いて立ち上がり、開けっ放しになっているガラス戸を静かに閉めた。
今日は二度も死にかけた。
そう思った。

「飲み逃げやられちゃった、飲んでないけどね、ニャロメ」
彼女は、テキパキとカウンターの上を片づけながら、さっぱりしたように言った。

お金を払わない客がいると、普段は、相手を呼び止めて、彼女の代わりに飲み代を頂戴していたのだが、今夜は、用心棒稼業も普段通りにはいかない。
街の空に戦闘機がやって来てから、「普段」は、逃げ去った同僚のようにどこかへ消えしまった。

「テレビで何かやってないのかい」
「それがねえ、夕方から映らなくなっちゃったのよ。それまでは普通にやっていたんだけど」
また、懐かしい「普通」という言葉に心が和んだ。
その和みは、すぐに冷えてしまう。
心の中で彼女に「もっと普通って言ってくれ」と願った。

「あら、映ったわ」
テレビのリモコンをいじっていた彼女が、重苦しい空気を追い払うように明るい口調で言った。
画面には、ちょくちょくテレビで目にする大物政治家の男の顔が映っていた。
暗い面持ちで何かを語っているようだが、聞き取れない。
ときどき別人のようなしかめ面を作って口を動かしている。
それが大きな雑音にさえぎられて、話が聞き取れない。

そのうち画面が揺らいで、男の姿が消えた。
すると、音声がはっきり聞こえだした。
ノイズに隠れてしまった男は、毅然とした口調で「国民の皆さん、国を守ってください」と言った。
そのあとは、雑音がひどくなって、画面が暗くなり、なにも映らなくなった。

「そうか、国はわたしたちを守ってくれないのね」
彼女は、がっかりしたようにつぶやいた。

平穏だったときは、「国民の命と財産を守るのが政治家の使命であります」と言っていた男だった。
今年の夏に西日本が集中豪雨に襲われたときは、ヘルメットを被った作業服姿で「皆さん、自分の身を守る行動をとってください」と説いていた。
それが今度は「国を守れ」とは。

「結局は薬局さ」とふざけたら、「なに、それ」と彼女が笑った。
こんなときでも、笑顔を見せてくれるのが彼女の良いところだ。

店の裏口を小さく叩く音がして、「俺だよ、テシマだよ」という抑えた声が聞こえた。
彼女は小上がり席の横を通って通路の突き当りにある小さなドアの鍵を開けた。

顔だけ出して店内を見回してから「よっ」と言って、テシマさんの大きな体が素早く小さな裏口をくぐりぬけた。
テシマさんは、警視庁の組織犯罪対策部の元刑事だが、警察組織に馴染めずに焼鳥屋のオヤジに転職したという変わり者である。
組を抜け出た若い者の面倒見が良くて、昔、何回か世話になったことがあった。

テシマさんは、小上がり席に身を滑らせて、障子の影から手招きした。
彼女が用意したビールとお通しをテーブルに置いたら、すぐに一杯飲みほして「カーッうめえ!」と気焔を上げた。

小上がりにあいさつに来た彼女に「こんなときに店を開けるなんて、いい度胸してるぜ」と声をかけた。
「てひ、ほめられちゃった。なにかご馳走するね」
「違うよ、テシマさんはあきれてるんだよ、もう提灯を下げて戸締りしたほうがいいよ。またあいつらが来るかもしれないから」
「ニャロメ、飲み逃げ野郎!」
テシマさんが来たおかげか、彼女は人心地ついたようだった。
戸締りをしてから、カウンターのなかで何かおつまみを作っている。

「俺は、あいつらが遠ざかったのを確かめてからここへ来たんだ」
テシマさんが語りだした。
「へえ、見張ってたんですか」
テシマさんは声を潜めて「今日の昼前に、あいつらの仲間に、ヤマが殺されちまったのよ」と言った。

ヤマちゃんは、テシマさんの弟分で、焼鳥屋を手伝っている気のいい兄ちゃんだ。
ここの居酒屋で、よく三人で楽しく飲んだものだった。
ヤマちゃんの笑顔が頭に浮かんで消えない。
咽喉の奥が干上がって、言葉が出なくなった。

彼は、一週間ぐらい前から変なやつらが街をうろついているとテシマさんに言っていたらしい。
テシマさんも気になって、昔の刑事仲間に尋ねてみたそうだが、警察では把握していないということだった。

正体を探ろうとあっちこっち付け回しているうちに、今日になって白昼堂々射殺されたのだという。
遺骸は、路地裏に放置されたままらしい。
ついさっきの戦慄が蘇って、身体が震えた。

「あの国の諜報部の連中らしいが、スパイが大っぴらに人殺しを始めたと思ったら、さっきの空中戦の有り様さ」
テシマさんは二杯目を飲み干して、手の甲で口を拭った。
「俺はくやしくて、ヤマの敵討ちに連中の仲間をふたりばかり弾いてやったのさ」
空になったジョッキの底を見つめながら「まだ身元はばれてないはずだから、あんたらには迷惑はかけないよ。俺ももうじき消えるからよ」と言って、テシマさんは紙袋を差し出した。

「あんたも一挺持ってた方がいいよ。本当はヤマに渡そうとしたヤツなんだけど、もう遅かったよ。ま、持っていてどうなるというものでもないけどさ」
カウンターの調理場の方を顎でしゃくって、「守ってやれよ」と言ってうっすら涙ぐんだ。
鬼の目にも涙だった。
その涙につられて、ヤマちゃんの死を悼んだ。

「ごちそうさん、ママさんによろしくな、あばよ」
テシマさんは、そうっと裏口から消えた。

彼女がカウンターのスイングドアをお尻で押し開け、料理を載せたお盆を両手で捧げ持ちながら言った。
「今夜は飲みましょうよ、ヤマちゃんも来ればよかったのに」



夜空が白み始めたら、バタバタというヘリコプターの音が聞こえた。
ようやく、うとうととしかけたところ、また現実の冷水を浴びせかけられた。

ヘリコプターの拡声器から音声が流れている。
「昨夕、新政府の職員が何者かに暗殺された。犯人に心当たりのある者は申し出よ。今から1時間以内に犯人が見つからない場合は、この街区の男性を10人処刑する。それでも見つからない場合は、また1時間後に10人処刑する。犯人が見つかるまで処刑を続ける。だから、早く犯人を差し出せ」

平穏だったときに、ビールを飲みながら見た戦争映画を思い出した。
映画では、ナチス党員の将校がレジスタンス活動を壊滅させるために、その村の半数の無関係な農民を銃殺した。
将校役の俳優の憎たらしい演技に腹がたったものだが、今それが現実に行われようとしている。

彼女が寝返りをうってこっちを見た。
「起きたの」と手を差し出してきたとき、突然、階下の店のガラス戸の割れる音がした。
飛び起きて、押し入れの戸棚から紙袋を取り出した。
「あんた・・・・・」
彼女が半身を起こして、低くささやいた。


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