雑談散歩

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谷内修三氏のブログに示唆に富んだ言葉があった

谷内修三氏のブログ。


ときどき、きらめく言葉を求めて、インターネットに散在するブログ記事を読むことがある。
きらめく言葉とは、心(脳)に響く言葉のこと。
胸にジンと来る言葉のことである。
そういう言葉は、示唆に富んでいる。

たまに訪れるブログのひとつに、「詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)」がある。
このブログの12月10日付のタイトルは「和辻哲郎の「公平」(そして向田邦子)」となっている。

和辻哲郎の著作である「日本古代文化」について記されてあるのだが、最後の方にある谷内氏の言葉にジンと来た。
和辻は「日本の古代文化」を愛してしまったのだ。だから本を書かずにいられなかったのだ。「愛」だから、他人から見ればときどき「ばかげている(間違っている)」。でも、だからこそ(つまり他人から批判されるのはあたりまえの部分があるからこそ)、そこには他人にはどうすることもできない「一個の人間」としての「正しさ」がある。

いい言葉だなあ、と思った。
特に『「愛」だから、他人から見ればときどき「ばかげている(間違っている)」。』というところが、きらめいている。

でも、「一個の人間」としての「正しさ」があるというところは、いまひとつピンとこない。 

「他人から見れば間違っているかもしれないが、一個の人間としては正しいことがある」ということなのだろうが。

そういうことであれば、確かにある。
自分本位な「他人」や、自身の狭い見識で正統派を主張する「他人」が、確かにいるように。
当ブログ運営者も、その一人かもしれないが、その程度の「確かさ」で、「他人から見れば間違っているかもしれないが、一個の人間としては正しいことがある」ということが確かにある。

ここで脱線。
谷内氏には無礼なことだが、氏の言葉を当ブログ運営者(一個の人間)としての言葉に置き換えてみた。

山男(山女も)は、山や森を愛してしまったのだ。だから山や森に行かずにはいられない。
「愛」だから、他人から見ればときどき「ばかげている(間違っている)」。
でも、だからこそ(つまり他人から批判されるのはあたりまえの部分があるからこそ)、そこには他人にはどうすることもできない「一個の人間」としての「生き方」がある。

谷内氏の言葉を借用して、自分流に書き換えて、手前勝手に、心をきらめかせている。
谷内氏の言葉には、当ブログ運営者がこんな思いに至る示唆があったのだ。
人の言葉には、考えるヒントが潜んでいる。
そう思った次第である。

蛇足だが、和辻哲郎の「古代日本文化」は読んだことがない。
「古寺巡礼」は、半世紀前に読んだことがあるが、その内容はすっかり忘れてしまった。

■参考サイト 
和辻哲郎の「公平」(そして向田邦子) 詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

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