雑談散歩

    山スキーやハイキング、読書や江戸俳諧、山野草や散歩、その他雑多なことなど。

内田百閒の短篇小説「白子」について・夢幻と現実

短篇小説「白子」

「夢幻」小説

内田百閒の短篇小説には、描かれている光景や登場人物の行動が夢幻的であるものが少なくない。

その「夢幻」の中に現実が混在している。
または、現実の中に「夢幻」が混在している。

「夢幻」と現実の境界は曖昧である。
それが、内田百閒の「夢幻」小説を読み解くヒントになっていると当ブログ管理人は感じている。

私たちが睡眠中にみる夢に、実生活の問題が迫ってくることはよくある。

たとえば、交通事故を起こしてしまったと思い悩んでいる夢を見ることがある。
思い悩んでいる自分が、夢から覚めたときほっとする。
ああ、夢だったのだと安堵する。

見ていたのは夢なのだが、「思い悩み」は実際のものである。
夢を見ていて、夢の感情を抱く。
なんてことは無い。

どんなに夢に囚われていても、その人の感情だけは現実の世界に根付いているものだ。
夢でありながらも、その景色には生活臭が色濃く漂っている。

現実から「夢幻」へ移動

そんなことを考えながら内田百閒の短篇小説「白子」を読んでいると、物語に登場する「黒い犬」や「白子」は、「夢幻」のものでありながら現実のものでもあるという感想が湧いて来た。

ここでブログ管理人が言っている「夢幻」とは、作者が創り上げた、と同時に作者が迷い込んだ非現実世界のことである。

さて、小説「白子」では、「黒い犬」も「白子」も二重に存在するようなイメージを持っている。

その二重性は、寓意や象徴ではなくて、「黒い犬」や「白子」でもあり、同時に別のものであるというような。

町角に佇む一匹の犬は実世界のものだが、物語の語り手である「私」の後ろに群がる「何十匹とも何百匹とも解らない程の黒犬」は「夢幻」である。

黒犬は、「私」が現実から「夢幻」へと移動するきっかけとなっているようだ。
町の角に黒犬が一匹座っていた。黒い毛色が漆を塗った様に美しい光沢をしているけれども、前脚が馬鹿に短くて、下顎が前へ飛び出していた。その顎に細かい白い歯がくしゃくしゃと並んでいるのを見たら、誰だかわからないけれども、そんな顔の男がひとりでに心にうかんで来て、腹が立った。
黒い犬の顔が人間の顔に見えてから、町のあちこちに「根性のわるそうな顔」をした黒犬をたくさん見るようになる。
もう「私」は「夢幻」の世界にとりこまれつつある。

黒犬

では、黒犬は「夢幻」の世界では何なのだろう?
宗教施設に近づくに従って、だんだん増えていき、宗教施設を取り巻いている彼らは、おそらく信徒の集団であろう。

小説の中で黒犬は、「私」を宗教施設へ追いやり、そこへ閉じ込めるという役を担っている。

信仰者からすれば、不信人な者は反社会的な存在であるかもしれない。
黒犬の群れは、信仰を持たない反社会的人物を監視する信徒集団なのではないだろうか。
「私」が宗教施設から逃げ去ろうとしたとき、黒い犬の群れに恐怖を感じたのはそのせいであろう。

「私」は黒犬を以下の様に感じている。
そうして根性のわるそうな顔をして、みんな下顎を前に突き出しているのを見ると、何とも云われない程憎たらしくて癪にさわった。
無信心な者から見れば、興味のない宗教を信じろとしつっこく勧誘する信者は不快な存在である。
上記の小説文は、この不快さに通じているのではあるまいか。

「白子」の登場

「私」が歩いている町は「無暗に横町の沢山ある町」で、「横町はみんな狭くて、向こうの方は薄暗く暮れかかって」いる。

このたくさんある横町の一本一本が「夢幻」への通路と考えて良いだろう。
たまたま神の存在について考えていた「私」は、「細長い顔をした女」(宗教勧誘員か?)の案内で、神がいる「夢幻」の通路へと入ってしまう。

横町の道の真ん中にぶら下がっている「恐ろしく大きな提灯」の下を通れば、そこは神のいる世界なのだ。

宗教施設らしき家の中で「私」は、「白子」にまとわりつかれる。
「白子」とは、 生まれつき色素が不足しているために、皮膚や毛髪などが白い状態である遺伝疾患の俗称。

現実ではそうなのだが、「夢幻」に現れた「白子」は何者なのか。

神は、弱者を救済する存在であるが、実生活では、健康弱者である「白子」は神によって救済されていないと思われる。
神はいないと考えている「私」にとって、「白子」は神の不在証明のようなものである。
と同時に、「白子」は、神の存在を否定するために祀り上げられた神的存在でもありうる。
それは、以下の小説の文からうかがい知ることができる。
それじゃ神はいないと云う者も、その否定する前に、一先ず自分の神を認めたことになってしまう。
その証拠に、宗教施設で「私」の脚にからみついた「白子」は、神への信仰から逃げ去ろうとしている「私」を捕らえている。
神の不在証明である「白子」が「私」を神に繋ぎとめようとしているのだ。

その「白子」を、「私」は誤って踏み殺してしまう。

笑い

「白子」を圧し潰した後、「私」は宗教施設の背の高い男に取り押さえられる。
男は「私」の腋の下に両手をかけて締め付ける。
それが「私」にはくすぐったくて可笑しくてたまらない。

「夢幻」の男や女の行為が、可笑しくてたまらないのだ。
私は堪らなくなって笑い出した。喉につまる様な声が腹の底からこみ上げて来て、笑いが止まらなかった。私は人の子供を踏み殺して可哀そうにもあり、親には気の毒だと思い、後悔もするし、気味もわるいし、恐ろしくもあり、又私をこんな目にあわした女を憎らしくも思った。けれども、その色色な気持ちのどれにも、一寸も思い耽ることは出来なかった。気の毒なことをしたと思いかけても、すぐに可笑しくなってしまった。恐ろしい事だと云う気が起こりかけても、またすぐに可笑しくなってしまった。
「白子」は宗教勧誘員の女の子どもであった。
女は子どもの死を悲しみながら「貴方はこんなお験(ため)しに遭っても、まだ神様のいらっしゃる事を信じませんですか」と言って「私」に信仰を迫る。
私は可笑しくて堪らないから、夢中になって、「いるよ、いるよ」と云いながら笑いつづけた。

非日常世界(白子のいる宗教施設)と平凡な日常(笑いこける)の混在

「お験(ため)し」とは霊験のことだろうか?
霊験は神の象徴である。
宗教施設の中で神が存在することを迫る女に、「私」は、くすぐったい・可笑しい感覚を紛らわすために神の存在を認めてしまう。
文脈から考えると、それは口先だけのことのようである。

「私」は「夢幻」のなかで後悔や恐怖の念に駆られるが、その念に思い耽ることが出来ないでいる。
肉体的な実感としての「くすぐったさ・可笑しさ」が、現実への移動の契機になっているのかもしれない。

非日常から日常へ移動するきっかけは、平凡な日常の側から差し伸べられた実感だった。

普段の生活に戻れば、「私」は、神はいないと思っている平凡な男になる。
女は、平凡な宗教勧誘者であり、黒犬は、町角の平凡な犬。
そして、「白子」は、神はいないという平凡な「理由」に姿を変えることだろう。

物語は以下の文章で締めくくられている。
「それでは、貴方は神様を信じて、私と一緒に神様を祈りなさいますか」と女が私に近づきながら、尖った顔をして問うた。
「祈ります、祈ります」と私は可笑しさを堪えて、やっとこれ丈の返事をして、また身を悶えながら笑いこけた。
こうして「私」は、虚しい返答を残したまま、覚醒する。
「白子」の子どもの殺人もなく、入信もなかった日常に戻り、ほっと安堵することだろう。
 

色文字部分:小説「白子」からの抜粋

参考文献
ちくま文庫 内田百閒集成3 「冥途」に収録の「白子」
Next Post Previous Post

広告