岡本かの子の「家霊」を読んだ感想。
どじょう鍋。 |
岡本かの子の小説は初めて。
短篇小説「家霊」を読んで、その過剰とも思える「修辞」にまず驚いた。
例をあげると、以下のような文章である。
「いのち」という文字には何か不安に対する魅力や虚無から出立する冒険や、黎明(れいめい)に対しての執拗(しつよう)な追求性――こういったものと結び付けて考える浪曼的な時代があった。そこでこの店頭の洗い晒さらされた暖簾の文字も何十年来の煤(すす)を払って、界隈(かいわい)の現代青年に何か即興的にもしろ、一つのショックを与えるようになった。
この室内に向けて昼も剥き出しのシャンデリアが煌々(こうこう)と照らしている。その漂白性の光はこの座敷を洞窟のように見せる許(ばか)りでなく、光は客が箸(はし)で口からしごく肴(さかな)の骨に当ると、それを白の枝珊瑚(さんご)に見せたり、堆(うずたか)い皿の葱(ねぎ)の白味に当ると玉質のものに燦(きらめ)かしたりする。そのことがまた却(かえ)って満座を餓鬼の饗宴染みて見せる。
風が坂道の砂を吹き払って凍て乾いた土へ下駄(げた)の歯が無慈悲に突き当てる。その音が髪の毛の根元に一本ずつ響くといったような寒い晩になった。坂の上の交叉点からの電車の軋(きし)る音が前の八幡宮の境内(けいだい)の木立のざわめく音と、風の工合(ぐあい)で混りながら耳元へ掴(つか)んで投げつけられるようにも、また、遠くで盲人が呟(つぶや)いているようにも聞えたりした。おやと思い、二度三度読み返してみると、最初感じた過剰さが段々薄れていく。
なんとなくムードが伝わって来て、そう大仰な装飾でもないなと思えてくる。
では、なぜ過剰と感じたのだろう。
それは、文章の中に備えてある「刺激」と関係があるようだ。
いちばん上の文章は、読者の「感情」を刺激している。
真中の文章は、読者の「視覚」を刺激し。
いちばん下の文章は、読者の「聴覚」を刺激している。
これらの他に「客一人帰ったあとの座敷の中は、シャンデリアを包んで煮詰った物の匂いと煙草の煙りとが濛々(もうもう)としている。」という表現もあって、どうやら「嗅覚」も刺激されているようである。
もちろん、どじょう料理の店なので味覚も刺激している。
いちばん下の文章は、読者の「聴覚」を刺激している。
これらの他に「客一人帰ったあとの座敷の中は、シャンデリアを包んで煮詰った物の匂いと煙草の煙りとが濛々(もうもう)としている。」という表現もあって、どうやら「嗅覚」も刺激されているようである。
もちろん、どじょう料理の店なので味覚も刺激している。
「あの小魚を口に含んで、前歯でぽきりぽきりと、頭から骨ごとに少しずつ噛み潰して行く」という風に。
念入りに読者の感覚を刺激しているから過剰に感じたのだろうか。
「感情」や「視覚」や「聴覚」や「嗅覚」や「味覚」までも刺激された読者は、この小説の主要登場人物である徳永老人に対してどういう感想を抱くのだろう。
徳永老人がどじょうを食べることは、彼が生業である彫金の片切彫に情念を注ぐことと同一である。
ブログ管理人は、そう感じている。
「この身体のしんを使う仕事には始終、補いのつく食いものを摂らねば業が続かん」と老人が独白しているように。
この「いのち」という店名のどじょう店に寄って来る客たちは、徳永老人のように「補いのつく食いもの」すなわち精のつく食い物を求めている。
「精力の消費者」がその命を維持するために、小魚の命をいただく。
そういう客を向かい入れて、どじょう店「いのち」は代々続いて来たのである。
この古い家には、宿命のようなものがあった。
癌を患って引退した母親が、今は店の帳場を任されている娘のくめ子に、こう言って聞かせる。
と同時に、毎日のようにタダでどじょうをせがむ徳永老人は、くめ子にとって、この古い店に憑りついた霊のようでもある。
くめ子の母を慰めていた老人が、今はくめ子が提供するどじょうに慰められて生きているのだ。
人間が他の生物の命をいただいて生きていることは、他の生物と呼応していることなのか。
そんな宗教的な情緒も、この小説に感じられるのだが。
岡本かの子は仏教研究家でもあった。
いずれにしても、くめ子はまだ結婚前の若い女性である。
小説の端々には、五感に訴える描写ばかりではなく、女性の若々しい振る舞いも垣間見られる。
それが読者にとっても作者にとっても救いとなっているように思われる。
その青春時代の心情を、代々続くどじょう店の娘であるくめ子に仮託しているようにも読めるのだが。
どじょう店を餓鬼の洞窟の様に描き、そのなかであっけらかんとして清々しく生きているくめ子。
もちろん「家霊」は私小説ではないが、岡本かの子の顔が見え隠れしているように感じた。
小説「家霊」は「徳永老人はだんだん瘠せ枯れながら、毎晩必死とどじょう汁をせがみに来る。」という文章で閉じられている。
この小説に、題名になっている「家霊」は登場しない。
「家霊」は、「感情」や「視覚」や「聴覚」や「臭覚」や「味覚」までも刺激された読者が、さらにこの小説を読み進めて、思い描くべきイメージなのかもしれない。
色文字部分:小説「家霊」からの抜粋
参考文献
ちくま文庫 「名短篇、さらにあり」に収録の岡本かの子「家霊」
Wikipedia 岡本かの子
念入りに読者の感覚を刺激しているから過剰に感じたのだろうか。
「感情」や「視覚」や「聴覚」や「嗅覚」や「味覚」までも刺激された読者は、この小説の主要登場人物である徳永老人に対してどういう感想を抱くのだろう。
徳永老人がどじょうを食べることは、彼が生業である彫金の片切彫に情念を注ぐことと同一である。
ブログ管理人は、そう感じている。
「この身体のしんを使う仕事には始終、補いのつく食いものを摂らねば業が続かん」と老人が独白しているように。
この「いのち」という店名のどじょう店に寄って来る客たちは、徳永老人のように「補いのつく食いもの」すなわち精のつく食い物を求めている。
「精力の消費者」がその命を維持するために、小魚の命をいただく。
そういう客を向かい入れて、どじょう店「いのち」は代々続いて来たのである。
この古い家には、宿命のようなものがあった。
癌を患って引退した母親が、今は店の帳場を任されている娘のくめ子に、こう言って聞かせる。
「妙だね、この家は、おかみさんになるものは代々亭主に放蕩されるんだがね。あたしのお母さんも、それからお祖母さんもさ。恥かきっちゃないよ。だが、そこをじっと辛抱してお帳場にくめ子の母親にとっては徳永老人が「いのちを籠めて慰めて呉れるもの」であったのだ。噛 りついていると、どうにか暖簾( もかけ続けて行けるし、それとまた妙なもので、誰か、いのちを籠めて慰めて呉れるものが出来るんだね。お母さんにもそれがあったし、お祖母さんにもそれがあった。だから、おまえにも言っとくよ。おまえにも若 しそんなことがあっても決して落胆おしでないよ。今から言っとくが――」
と同時に、毎日のようにタダでどじょうをせがむ徳永老人は、くめ子にとって、この古い店に憑りついた霊のようでもある。
くめ子の母を慰めていた老人が、今はくめ子が提供するどじょうに慰められて生きているのだ。
人間が他の生物の命をいただいて生きていることは、他の生物と呼応していることなのか。
そんな宗教的な情緒も、この小説に感じられるのだが。
岡本かの子は仏教研究家でもあった。
いずれにしても、くめ子はまだ結婚前の若い女性である。
小説の端々には、五感に訴える描写ばかりではなく、女性の若々しい振る舞いも垣間見られる。
それが読者にとっても作者にとっても救いとなっているように思われる。
宿命に忍従しようとする不安で逞しい勇気と、救いを信ずる寂しく敬虔な気持とが、その後のくめ子の胸の中を朝夕に縺(もつ)れ合う。それがあまりに息詰まるほど嵩(たか)まると彼女はその嵩(かさ)を心から離して感情の技巧の手先で犬のように綾なしながら、うつらうつら若さをおもう。岡本かの子は神奈川県の旧家の娘として生まれている。
その青春時代の心情を、代々続くどじょう店の娘であるくめ子に仮託しているようにも読めるのだが。
どじょう店を餓鬼の洞窟の様に描き、そのなかであっけらかんとして清々しく生きているくめ子。
もちろん「家霊」は私小説ではないが、岡本かの子の顔が見え隠れしているように感じた。
小説「家霊」は「徳永老人はだんだん瘠せ枯れながら、毎晩必死とどじょう汁をせがみに来る。」という文章で閉じられている。
この小説に、題名になっている「家霊」は登場しない。
「家霊」は、「感情」や「視覚」や「聴覚」や「臭覚」や「味覚」までも刺激された読者が、さらにこの小説を読み進めて、思い描くべきイメージなのかもしれない。
色文字部分:小説「家霊」からの抜粋
参考文献
ちくま文庫 「名短篇、さらにあり」に収録の岡本かの子「家霊」
Wikipedia 岡本かの子