内田百閒の短篇小説「断章」を読んだ感想。
「 断章」と言うタイトルの小説には、何が書かれているのだろう。
多くの読者は、そういう興味を抱きつつ、内田百閒の短篇小説「断章」に向かうに違いない。
断章とは、断片的な文章のことである。
断章とは、全体の文脈とは無関係に、「本章」に組み込まれた、眠気覚ましのような、眠気を誘う様な、読者を困惑させるある種の奇異な文章だと、当ブログ管理人は思っている。
また、断片的な文章は、不明な様相を、不明なままに結論を先送りにして、思い浮かぶことを書き綴った文章のことであるとも言える。
このような意味合いで断章(断片)のことを考えると、いつも、不確かなものにつきまとわれる。
はたして断章は、行き当てもなく寄る辺もなく、浮き沈みを繰り返すばかりなのだろうか。
小説「断章」は、断章そのものが、題名になっている不確かな小説。
これが小説を読んで抱いた私の印象である。
でも、この小説で、その物語を「断つ文章」はどの部分であるのだろうという興味は消えない。
短い小説を読み進めているうちに、「何」という文字が目立っているのに気づいた。
気になって数えてみたら13個あった。
- 女が何か云ったらしい
- 何を持ってくるのだと尋ねようと思う間に
- 何もする事がない
- 女がまた何か云ったらしい
- おい、何を云ってるんだい
- 何だか知らないが、取って来てあげようか
- 何処から川なのだか
- 何だか子供の足跡ではない様に思われ出した
- 何か急な御用ですか
- 何故です
- 私も何かお手伝い致したい
- 何のお手伝いですか
- 何故いけないのです
横になっている女が、「ちょいと私の家から取って来たいものがあるんですけれど」としきりに言うから、「私」は女の家まで出かけて、「何だか知らない」ものを取りに行く。
女の家で、留守居の婆やが帰って来るのを待っていると、突然「例の教官」が訪ねてくる。
「例の教官」は、「私」の「奥様」について何かを告げる。
その何かに気づいた「私」は、「前にのめって、思わず手をついた」
最後まで読んでも、物語全体は明らかにならず、「何」という薄闇に包まれたままである。
「私」の家に泊まり込んでいる女が、「奥様」とも思えない。
むしろ全体とは無関係に「何か」が不明のまま意味づけられているような気がする。
たとえば、「私」が、女の家の縁側についていた子どもの泥足の足跡を目で追っていたら、子どもの足跡ではないように思われ出したこととか。
日常が、突然、非日常の何かとして意味づけられているのだ
その「何か」は、何かが起こりそうな予感を読者に抱かせる。
「先生はご存知なかったのですか」
相手が見る見る真青になって、辺りの薄闇にぽかりと穴があいた様に、その顔が遠退いた。
「先生はご存じなかったのですか」と言ったのは「例の教官」であり、「先生」とは「私」のことである。
見る見る真青な顔になるのは、「例の教官」である。
「前にのめって、思わず手をついた」まま、その様子を見ている「私」は、緩慢だった時の流れから解き放されて、一瞬のうちに事態を理解したのかも知れない。
しかし、何かが起こりそうだという読者の予感は、予感のまま遠退くのである。
ひょっとしたら内田百閒は、日常を、決してつながることのない断章の連続であると考えていたのかもしれない。
そういう風に読むと、以前読んだ内田百閒の小説に違った感想を持ちそうである。
色文字部分:小説「断章」からの抜粋
参考文献
ちくま文庫 内田百閒集成4 「サラサーテの盤」に収録の「断章」