雑談散歩

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芥川龍之介の短篇小説「運」を読んだ感想

小説「運」。

 
芥川龍之介の「運」は、1917年(大正6年)1月に、雑誌「文章世界」に発表されている。

「羅生門」「鼻」「芋粥」と同様、小説「運」の元となっている物語も、平安時代末期に成立したとされる「今昔物語集」に収められている説話である。

小説の流れは、今昔物語集巻十六「貧女清水観音値盗人夫語第三十三」の内容を、陶器師(すえものつくり)の翁が、若い侍(青侍)に語って聞かせるというもの。

この「入れ子構造」になっている作中作で、元ネタ(今昔物語)と大きく違うのは、芥川作の「運」では、娘が八坂寺の塔から逃げる際に殺人を犯してしまう点である。
その殺人を容認する青侍と、観音様頼みの幸運に否定的な
陶器師の翁との会話が、主たるストーリーとなっている。

陶器師と青侍がいるのは、陶器師の狭い仕事場である。
仕事場の入口に
「目のあらい簾(すだれ)」がぶら下がっていて、青侍は、簾の隙間から往来を眺めている。
往来を通るのは、清水寺の観音様のご利益を得ようと参詣する人々の群れ。

青侍は、観音様が善い運を授けてくれるということには半信半疑のようである。
その疑問の答を得ようと、翁に話しかけている。

翁は、昔に見聞きした貧しい娘の話を青侍に聞かせる。
娘が清水寺に御籠りをしていた夜に、夢現に観音様のお告げを聞く。
そのお告げに従って、見知らぬ男に八坂寺の塔に連れ込まれ、男と夫婦になってしまう。
翌朝に男は、娘に高価な絹織物を与えて、塔の外へ出かける。
残された娘は、塔の奥にたくさんの財物があるのを見つけて、男が物盗りであることを知る。

塔から逃げ去ろうとしたとき、男の飯炊き女の婆さんに邪魔をされ、格闘の末に娘は老婆を殺してしまう。
男に与えられた絹織物を持って逃げた娘は、それを元手に暮らしを立て直し、今では何不自由のない身の上になっているという。

この話を翁から聞いた青侍は、
「人を殺したって、物盗りの女房になったって、する気でしたんでなければ仕方がないやね」と言い、その女は幸運者だと翁に感想を述べる。
それを聞いた翁は、
「そういう運はまっぴらでございますな」と暗に青侍を非難する。

インターネットで小説「運」について調べてみると、この小説は「物質的な幸福」と「精神的な幸福」についての芥川龍之介の読者に対する問いかけであるとする「解釈」が多いようだ。

小説を「解釈」したことのない当ブログ管理人には、「幸福」云々の「読み」は思いつかなかった。
芥川龍之介は、果たして小説に道徳的な意味を込めたのだろうか。

ブログ管理人が気になったのは、小説冒頭に書かれた
「目のあらい簾」である。
そして、娘のことをよく知っているような陶器師の翁も気にかかる。
さらに、なぜ、青侍は翁の仕事場にいるのかということ。

「目の粗い簾」
は、清水寺の観音様のご利益を得ようと参詣する人々と陶器師の翁の仕事場を区切っている境界の役割をはたしていると思われる。
翁からは参詣する人々(大衆)が見えるが、大衆からは陶器師の姿は見えない。

観音様に参詣する人々は、簾の内側になど興味を抱かないであろう。
簾の内側の住人は、観音様から幸運を授かろうなんて考えてはいない。
青侍のように翁が若かった頃は、観音様からご利益を授かることを考えたこともあったかもしれない。

だが件の娘と出会い、その話を聞いているうちに思いが変わったのではないだろうか。
陶器師にとって、娘の話は恐ろしいものであった。
それからというもの陶器師は簾の内側に籠って陶器づくりに専念するようになった。

そういう陶器師の翁の物語が裏に潜んでいるようにブログ管理人は感じている。

さて青侍は、なぜ陶器師の翁の仕事場にいるのだろう?
陶器の生産・流通を取り締まる役人なのか。
その仕事を通して、陶器師の翁とよく会っているので、親しげなのか。

それとも、観音様のご利益に疑問を抱いて、参詣路に仕事場を構えている翁の知恵にすがりに来た大衆の一人か。

青侍は、翁の若い時分の姿であるのかもしれない。
今は、神仏から授かる運のことなどを気にかけずに、こつこつと物づくりに励んでいる翁と、その翁の若い時分を対比させて、芥川龍之介は、そんな図を楽しみながら映像的な小説を描いたのかもしれない。
青侍が問いを投げかけ、翁が語り手となる小説の構図は、過去の自分の疑問に現在の自分が語りかけているようにも見える。

芥川龍之介は、昭和2年の「今昔物語について」という文章のなかで、「今昔物語」の芸術的生命は「野生の美しさ」であると説いている。
「野生の美しさ」とは何だろう。

ブログ管理人は、「今昔物語」の暴力・残虐・滑稽さが漂う世界を描いている読物の、映像的な描写に、芥川龍之介が「野生の美しさ」を感じたのではないかと思っている。
読んでいると脳裏に浮かぶイメージ。
そのイメージの荒々しい美しさ。

小説「運」の鮮やかな描写も、映像的である。
その映像の世界に、簾の内側を見る目としての青侍の存在は欠かせない。
おそらく青侍は、粗末な仕事場を眺めて、いい年をしてこんな暮らしぶりなのかと思っているに違いない。
青侍は翁をなめてかかっている。
青侍の翁に対する態度から、読者もそう感じることだろう。

芥川龍之介は読者にそう感じさせて、陶器師の翁の物語を垣間見せているのだ。

小説「運」の面白さは、もうひとつの「入れ子構造」としての翁の物語をイメージできるというところにあると思う。


色文字部分:小説「運」からの抜粋

参考文献
新潮文庫 芥川龍之介著 「羅生門・鼻」に収録の「運」
角川ソフィア文庫 「ビギナーズ・クラシックス日本の古典 今昔物語集」武田友宏解説

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