芥川龍之介の短篇小説「鼻」を再読した感想
芥川龍之介「鼻」。 |
中学生の頃、芥川龍之介の「鼻」を読んで、「面白い」と思った記憶がある。
ところが、最近になって読み返してみたら、そのときほど面白いとは感じなかった。
なぜだろう?
おそらく、「鼻」は説明的な文が多く、理屈っぽいからではないか。
読んでいるうちに、小説というよりも、物語の解説文と接しているような気がしてくる。
とりわけ理屈っぽく感じたのは、語りの視点が変化している個所。
内供という高僧の行動や思惑が、三人称視点で描かれていたはずなのに、ある場面で、突然それが「神の視点(三人称全知視点)」に変わる。
「人間の心には互いに矛盾した二つの感情がある。」という語りに始まり、「傍観者の利己主義」という結論に至るあたりだ。
そこでは登場人物の心情を超えて、人間一般に通ずる心理が説かれている。
明解ではあるが、それだけに読者の想像の余地がなく、物語の中に入り込む隙がない。
物語が、読者の空想を遮断して、一つの結論へと突き進む。
この「明解な論調」が、当ブログ管理人の楽しみを奪ってしまうのだ。
ひねくれ爺の自分にとっては、こういう小説は面白くない。
では、どうして中学生の頃には「鼻」が面白かったのか。
それはきっと、説明的な文章の裏側に、自分なりの空想を潜り込ませて読んでいたからだろう。
子どもの頃は、そういう読み方が出来た。
内供の大きな鼻の滑稽さ、小坊主たちの悪戯、弟子の僧とのやりとり……そんな場面が、まるでマンガのように頭の中に浮かび、面白おかしく読めた。
つまり、当時の私は、「鼻」という小説の説明的な文の囲いをすり抜けて、自分なりの映像を勝手に思い描いていたのだ。
小説「鼻」は、子どもの自由な想像力までは排除しなかった。
だから、中学生の幼い私には面白かったのだろう。
今では、その「勝手な空想」を楽しむ能力が薄れてしまったのかもしれない。
マンガを空想する力を失ったひねくれ爺にとって、小説「鼻」は、ただの理屈っぽい読物となってしまったのだ。
「鼻」は、大正五年(1916年)二月、同人誌「新思潮」に発表された。
この小説を読んだ夏目漱石は、激賞したという。
漱石のような「理知的」な作家は、この理屈っぽさこそが、大きな魅力だったのだろうか?
※文中の引用は「新潮文庫 芥川龍之介著『羅生門・鼻』所収の『鼻』」より。