内田百閒の短篇小説「大尉殺し」の私の読み方
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短篇小説「大尉殺し」 |
「大尉殺し」という生々しいタイトルと、実在する地名が出てくるので、もしやと思い、インターネットで調べてみたら、実際に起きた事件が題材になっていた。
1898年(明治31年)12月2日の深夜のこと。
山陽本線の鴨方駅西方2.1Kmぐらいを走行中の列車の車内で殺人事件が起きた。
後にこの事件は、「山陽鉄道列車強盗殺人事件」と名付けられた。
ウィキペデアによると、勤務地に戻るために列車に乗っていた陸軍第12師団福岡連隊中隊長の某大尉が、車中で、強盗目的の二人の男によって短刀で殺害されたとのこと。
当時の大阪朝日新聞によって、日本に鉄道開業以来初めて列車内で起こった殺人事件として大々的に報じられたという。
1889年(明治22年)生まれの内田百閒は、この事件当時は9歳になっていると思われる。
岡山市内で生まれ育った内田栄造(百閒)少年は、近隣の鴨方で起こった殺人事件に関心を持ったことが想像される。
新聞の写真を見たり、大人たちの噂話に耳をそばだてたり。
この事件の3年前(1895年)に日本は日清戦争で勝利している。
この勝利は、以下の変化を日本にもたらしたとされている。
- 日本が帝国主義国家の仲間入りを果たし、国際的地位が向上した。
- 大陸進出の足場を築き、軍国主義化の路線を、一層推し進めた。
こんな状況下で起きた大尉殺人事件は、日本中に大きな衝撃を与えたことであろう。
世界に名をとどろかせた強い日本陸軍。
その強さの象徴でもあったであろう歩兵大隊の中隊長が、民間人の細腕によって刺殺されたのだ。
岡山市のすぐ近くで起こったこの事件によって、栄造少年の心は大きく揺さぶられたであろうことは、充分想像がつく。
世界に名をとどろかせた強い日本陸軍。
その強さの象徴でもあったであろう歩兵大隊の中隊長が、民間人の細腕によって刺殺されたのだ。
岡山市のすぐ近くで起こったこの事件によって、栄造少年の心は大きく揺さぶられたであろうことは、充分想像がつく。
短篇小説「大尉殺し」は、1927年(昭和2年)に月刊誌「女性」6月号に発表されている。
このとき、内田百閒は38歳。
30年前の少年期に地元で見聞した殺人事件を題材にして、小説「大尉殺し」を書いたのだ。
この小説で特徴的なのは、語り手である「私」が、あたかも「目撃者」ででもあるかのようにふるまっていることである。
だが文脈を辿ると、30年前の自身の記憶を傍観しているようにも読める。
それが読者を、まるで芝居の舞台を観ているような気分にさせている。
実際、栄造少年は事件を目撃していない。
噂話や新聞記事の写真などで、想像を膨らませていたと思われる。
そして38歳になって、その想像が「像」となって結実したのだろう。
その「像」とはどんなものだったのか。
事件のなりゆきを空想した映像的なもの。
それに、栄造少年の不安の「像」が重なったのではあるまいか。
当時の汽車は、快適な暮らしをもたらす機械文明の象徴だった。
大尉は、良い未来をもたらす強い日本国の象徴だった。
それら少年のイメージが破壊された不安。
それに38歳現在の内田百閒が抱えている不安が重なって、暗闇の中で大きく動き出した藪のように「私」を慄かせている。
小説「大尉殺し」は、以下の緊迫した文章で閉じられている。
作品が発表された1927年(昭和2年)は、日本が国際的・国内的に大きな不安を抱えていた時代であった。
同年3月には中国・南京において、国民革命軍による暴動(南京事件)が発生。
日本の領事館や民間人が襲撃された。
5月には大日本帝国の軍隊が「居留民保護」を名目に山東省へ出兵。
この山東出兵は、日清戦争以来の大規模な日中間の衝突事件に発展し、後の日中戦争の前哨戦となったとされる。
そして、「大尉殺し」発表後の7月24日には、百閒の親友である芥川龍之介が自殺するという出来事もあった。
これらの歴史的背景を考えると、「大尉殺し」は単なる少年時代の記憶を辿る物語ではない。
この小説は、帝国日本の内と外に漂う「暗い不安」を、幼少時の記憶というフィルターを通して幻出させた内田百閒の「恐怖劇」であると思う。
色文字部分:小説「大尉殺し」からの抜粋
参考文献
ちくま文庫 内田百閒集成3 「冥途」に収録の「大尉殺し」
ウィキペデア「山陽鉄道列車強盗殺人事件」・「南京事件(1927年)」・「山東出兵」
このとき、内田百閒は38歳。
30年前の少年期に地元で見聞した殺人事件を題材にして、小説「大尉殺し」を書いたのだ。
この小説で特徴的なのは、語り手である「私」が、あたかも「目撃者」ででもあるかのようにふるまっていることである。
だが文脈を辿ると、30年前の自身の記憶を傍観しているようにも読める。
それが読者を、まるで芝居の舞台を観ているような気分にさせている。
実際、栄造少年は事件を目撃していない。
噂話や新聞記事の写真などで、想像を膨らませていたと思われる。
そして38歳になって、その想像が「像」となって結実したのだろう。
その「像」とはどんなものだったのか。
事件のなりゆきを空想した映像的なもの。
それに、栄造少年の不安の「像」が重なったのではあるまいか。
当時の汽車は、快適な暮らしをもたらす機械文明の象徴だった。
大尉は、良い未来をもたらす強い日本国の象徴だった。
それら少年のイメージが破壊された不安。
それに38歳現在の内田百閒が抱えている不安が重なって、暗闇の中で大きく動き出した藪のように「私」を慄かせている。
小説「大尉殺し」は、以下の緊迫した文章で閉じられている。
高梁(たかはし)川の土手には、鉄橋の上手に一かたまりの藪がある。暗闇の中で藪が大きく動き出した。いつ迄も遠くに響ばかり聞こえる夜汽車を、おびき寄せているように思われる。夜汽車の窓に大尉の顔が大きく写った。汽車が藪の陰まで来た。堅縞男が起ち上って大尉の上にのしかかった。大尉が二重廻しを着たまま抵抗している。二つの男の影がもつれてきた。細い、青い光が二つの影の中に見えたり隠れたりする。汽車が恐ろしい音をたてて、鉄橋を渡った。土手の藪のなかにその響きが残って、汽車の行ってしまった後まで、藪はいつまでもごうごうと鳴りながら、ゆらゆらと動いて止まらなかった。
作品が発表された1927年(昭和2年)は、日本が国際的・国内的に大きな不安を抱えていた時代であった。
同年3月には中国・南京において、国民革命軍による暴動(南京事件)が発生。
日本の領事館や民間人が襲撃された。
5月には大日本帝国の軍隊が「居留民保護」を名目に山東省へ出兵。
この山東出兵は、日清戦争以来の大規模な日中間の衝突事件に発展し、後の日中戦争の前哨戦となったとされる。
そして、「大尉殺し」発表後の7月24日には、百閒の親友である芥川龍之介が自殺するという出来事もあった。
これらの歴史的背景を考えると、「大尉殺し」は単なる少年時代の記憶を辿る物語ではない。
この小説は、帝国日本の内と外に漂う「暗い不安」を、幼少時の記憶というフィルターを通して幻出させた内田百閒の「恐怖劇」であると思う。
色文字部分:小説「大尉殺し」からの抜粋
参考文献
ちくま文庫 内田百閒集成3 「冥途」に収録の「大尉殺し」
ウィキペデア「山陽鉄道列車強盗殺人事件」・「南京事件(1927年)」・「山東出兵」