雑談散歩

    山スキーやハイキング、読書や江戸俳諧、山野草や散歩、その他雑多なことなど。

藤沢周平「追われる男」の二つの視点

 藤沢周平「追われる男」新潮文庫

藤沢周平の短篇小説「追われる男」には、二つの視点が描かれている。

自身の女癖の悪さが元で殺人を犯してしまった男の視点。
過去に、この女癖の悪い男と一緒になろうとしたことがあった女の視点。

この二つの視点は、物語の終盤まで交わることは無かった。

小説では、とうの昔に捨てるようにして別れた女にまで逃走の援助を頼むほどの「女癖の悪さ」がクローズアップされている。
「女癖の悪さ」は、女に対する「甘えと我がまま」によっていると作者は記している。

男の視点は、目まぐるしく変わる。
女遊びのために、艶めかしい姿態を見る目。
逃走して逃げ込んだ留守の裏店で、汗まみれになりながら、身を隠す場所を求める目。

多くの男性読者は、何時の間にかこの男と一緒になって、暗く狭い部屋の中で、潜り込む隙間を探すようになるかもしれない。
それほど作者の描写は、臨場感に満ちているのだ。
岡っ引きに捕まるのではないかという不安や恐怖から生じる逃亡者のしぐさ。
埃っぽく汚れた部屋や寝具の様子に、逃亡者の心理を実感するかもしれない。

一方、共通の知り合いを通じて、逃走資金を無心された女の視点は、男に対して否定的である。
女はすでに、嫁いだ家庭で落ち着いている。

「ずいぶん勝手なことを言うじゃない」
「いい気なもんだわ」
「冗談じゃないよ」
と怒りの言葉を吐き捨てる。

多くの女性読者は、女性の立場から、この女と一緒になって、そうつぶやくことだろう。

だが、女の視点は揺らいでいる。
女は、男の浮気を承知で妻になろうとしていたのだ。
泣きながら、かみさんにしてくれと頼んだこともあった。

今は、働き者の男と所帯を持っている。
だが、昔の男が追い詰められていると聞くと、いつしか心の片隅に、この男が入り込んできた。
女は押し入れに蓄えてある三両の金を取り出して、男に届けようと家を出る。

女性読者は、この女を非難しつつ、哀れむかもしれない。
哀れむ感情が湧いてきたら、もう読者は作者に導かれつつあるのだ。

読者の視点は、女の視点と一緒になって、男の逃亡先である裏店に向かう。
しかし、その路地は、すで捕方の提灯で埋め尽くされていた。
縛られて背を折り曲げた男に、女の姿は見えなかった。

男と女の視点が交わることは無かったが、ここにきて、男性読者と女性読者の視点は一緒になる。

「なるほど、やっぱり、こうなったか」と。

しかし、読者をこういう気分に誘導することが作者の目的ではないであろう。

藤沢周平は、理屈では言い表せない男と女の在り様を描いたのだ。
二つの視点を通して多くの読者は、この世に見え隠れする人間の哀愁に目を向けたに違いない。

Next Post Previous Post

スポンサー