雑談散歩

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藤沢周平「龍を見た男」自然と神

藤沢周平「龍を見た男」新潮文庫


藤沢周平の「龍を見た男」は、山形県鶴岡市の「善寳寺が辰(たつ)年御縁年を迎えることに合わせて書かれた作品」と「全国郷土紙連合」のサイトで紹介されている。
作中には、善宝寺の縁起が挿入されており、そのことが伺われる。

強情で無信心な漁師の源四郎が、女房のおりくに連れられて、その善宝寺にお参りする。

源四郎は、漁で甥の寅蔵を死なせ、そのことを寅蔵の母親や村の漁師たちから責められ、気落ちした日々が続いていた。
おりくがお寺参りに連れ出したのは、そんな亭主を元気づけるつもりもあったのだろう。

寺の奥にある龍神伝説の池を見た時、源四郎が池の底に何かの存在を感じたシーンが描かれている。
池の底に、巨大なものの気配を感じたことが、エピローグの「助けてくれ、龍神さま」という彼の叫びにつながっている。

浜の漁師仲間とはつき合わず、自分の腕と判断力で、海の危険を乗り越えてきたと自負している源四郎は、神仏に頼る漁師たちを嘲笑っていたのである。
そんな彼が、池で何かを感じたことで、漁師生活二十数年のなかで初めて、心の中に懼(おそ)れを抱いたのだった。

裏を返せば、藤沢周平にとっても、それほどこの池は神秘的だったのだろう。
もしかしたら、源四郎の懼れは、作家自身の懼れだったのではないだろうか。
異界に対する恐怖や畏敬を、源四郎の感性と共有したのかも知れない。


源四郎は、夜に漁に出て、深い霧のために方角を見失う。
さっきまで見えていた浜の灯が霧の闇に覆われて確認できず、舟は恐ろしい速さで潮に運ばれる。
恐れを知らない男が、初めて、底知れない恐怖に襲われる。

もし善宝寺の池で何も感じなかったら、源四郎は「助けてくれ、龍神さま」とは叫ばなかったはずである。
彼は、他人の話は聞かないが、長年にわたって培ってきた自身の勘は信じる男であった。
その勘が、龍神の存在をほのめかした。

源四郎が龍神の助けを呼ぶと、霧の奥に地鳴りのような音が響き、赤く巨大な火の柱が闇を貫いてのびた。
その火光に地形が照らし出され、源四郎は方角を定めることが出来たのだった。
やがて行く手に村の灯が見えたとき源四郎は、安堵の涙を流す。

この火の柱が龍であるとは小説に明記されていない。
だが、源四郎が願って叫んだとき現れた火光であるから、彼にとっては龍であるに違いない。

もしかしたら火光は、雷光だったのかもしれない。
源四郎は雷鳴の後に、陸で発生した雷光が、霧の上の山並みを照らすのを見たのかもしれない。

海で働く者にとって、自然は神に近い存在である。
多くの漁師は、そのことを知っているから神仏に祈りを捧げるのだろう。

神はいないと思っていても、彼の仕事は大自然という神の采配に従わざるを得ない。
「五尺六寸の屈強な身体」の持ち主も、一歩間違えば、自然の中に取り込まれてしまうか弱い存在である。

自然界と、信仰を偶像化した龍の世界。
藤沢周平は龍を、「自然の偶然」と「信仰の象徴」の両方として描き、源四郎をその境界に立たせたのではあるまいか。
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