藤沢周平「逃走」暗黒と善良
藤沢周平の短篇小説「逃走」は、小間物売りを装う泥棒の物語である。
銀助は、あとをつけまわす岡っ引きの権三(ごんぞう)から逃げ歩いている。
その途上、彼は、言い争う声が聞こえる家で、泣き叫ぶ赤ん坊を見かける。
その赤ん坊は、夫婦喧嘩をしていた女の子どもだった。
女は、夫婦別れをしたあと、別の男との情交に夢中だ。
銀助は、母親に見捨てられたような赤ん坊を憐れむ。
というのは、かつて銀助も母親から置き去りにされた過去を持つからである。
銀助は、自分の子どもの頃の悲哀を、泣き叫ぶ赤ん坊の悲哀と重ね、赤ん坊に愛着を感じ出す。
「あたしゃ、この子が憎いんだよ。憎くて、憎くて」と情夫に洩らした女の言葉を聞いた銀助は、子どもの行く末を案じて、赤ん坊をさらってしまう。
裏店(うらだな)の知り合いの女房の乳を飲ませたりしたが、盗っ人稼業を本業と考えている銀助に子どもは育てられない。
そんなとき、「子供がなくて、嬶(かかあ)がさびしがっている」という権三の言葉を思い出した。
そこで銀助は、岡っ引きの権三の家へ忍び込んで赤ん坊を置いてくる。
逃げ出した背後には、赤ん坊をあやす権三の女房の声が聞こえる。
裏店を引き払った銀助は、権三の手が届かない深川へと逃走する。
赤ん坊を権三宅へ預けたことが、逃走のタイミングにつながったのである。
銀助はいっときの情愛から、泥棒家業にとって足手まといとなる赤ん坊をさらってピンチを招いた。
そのピンチを、疑い深い権三の追跡から逃れるためのチャンスに変えたのである。
藤沢周平の短篇小説によくみられる「逆転のドラマ」としても楽しめる内容である。
赤ん坊をきっかけにした、裏店の大工の女房と銀助との浮気もユーモラスに描かれていて、起伏に富んだ物語となっている。
だが作者は、銀助の善良な一面だけを描いてはいない。
「内面はかなりどす黒い。その暗黒を内側に抱える男らしく、胸の中に口汚く悪態を吐き捨てた」という描写がそれを物語っている。
赤ん坊をさらう行為にも、優しさと同時に衝動や無責任さが見え隠れしている。
作者は、銀助の心の暗黒と善良さの二面を描いているのである。
また、裏店での女房達との微笑ましい交流と、身分を偽っている泥棒としての孤立感の二面性をも描いている。
そういう孤立感や心の暗黒からのいっときの逃走。
銀助は、深川のなじみの女郎の元へ逃げる。
その女と所帯を持とうと考えたこともあったが、彼が目指す天涯孤独な泥棒家業とは両立しない。
銀助は、この先も盗みを働き、逃走を続けることだろう。
善良な世界から暗黒な世界への回帰を繰り返しながら。
そういう二つの世界を行き来する男の生々しい生活感が描かれていると感じた。