藤沢周平「女下駄」過去の影
腕の良い下駄職人である清兵衛が、女房に贈るために作った女下駄は、妻への愛情が込められている。
その女下駄を、彼は捨てようとしていた。
女房のお仲が浮気をしているのではという話を聞いてから、清兵衛の心の平穏が失われる。
疑心暗鬼に襲われた彼は、飲み屋の亭主に、飲み代の代わりに女下駄を売りつけようとする。
妻への愛情の証である女下駄の存在が、清兵衛を苦しめていたのだ。
亭主が断ったおかげで、愛の象徴を手放さなかった彼は、飲み屋の帰り道で真実を知ることになる。
お仲と会っていたのはお仲の弟だった。
彼女は、弟の仕事についての悩み事を聞いていたのだった。
身内のことで清兵衛に心配をかけたくないという配慮から、亭主には知らせてなかったのである。
というのが藤沢周平の短篇小説「女下駄」のオチである。
よく喜劇ネタにあるようなオチかな、と思った。
だが、この物語をハッピーエンドで読んでいいのかどうか、疑問が残る。
読後に漂うのは、単純な安堵感だけではない。
いままで読んだ藤沢周平の小説に見られるような生々しいシーンは見あたらない。
生々しいといえば清兵衛の嫉妬心ぐらいである。
取引先の手代も、かつて住んでいた裏店の大家さんも、みんないい人ばかり。
浮気の誤解が解けて、元の平穏な生活に戻ったようだが。
清兵衛とお仲は、再婚同士という訳ありの夫婦である。
女房に死なれた清兵衛と、やくざな亭主と別れたお仲。
清兵衛は、お仲の浮気の相手として別れた亭主を考えていた。
もしお仲が浮気をしているとすれば、別れた亭主以外にはないと、勝手に思い込んでいたのだ。
その男については何も知らない清兵衛だが、日が経つにつれて、男の影が大きくなる。
知り合いに尋ねても、男には悪い噂話しかない。
今の幸福な生活を壊したくない清兵衛は、前の男の事をお仲に尋ねられない。
この誤解は、お仲の配慮と清兵衛の気遣いから生じたものだが、私は、お仲の前の男の存在が気になる。
いったん清兵衛の心に入り込んだ男の影は、なかなか消えないであろう。
男は、三十両とか五十両とかの大金を雇い主の親方から横領して姿を消していた。
女遊びと博打でその金を使い果たしたら、またお仲をあてにするのではないだろうか。
お仲は、清兵衛に表店に出てほしいので、料理茶屋で働いてお金をためている。
その店は、男と一緒だった頃からの勤め口である。
清兵衛は清兵衛で、腕の良い下駄職人だから、一定の収入がある。
男が、金の匂いを嗅ぎつけて現れないとも限らない。
小説の最後の一文は「飯の焦げた匂いがただよって来た」となっている。
この匂いは、家庭の温もりを感じさせるものでもあるが、不快な匂いとも取れる。
幸福の象徴であると同時に、幸福を破る兆しのようにも感じられる。
藤沢周平は、あえてこの両義的な匂いをラストに置くことで、読者の心に揺らぎを残したのではないだろうか。