宿かさぬ火影や雪の家つづき
宿が見つかった安堵感
昨日の記事に引き続き、与謝蕪村の句について。私はこの句を、蕪村がやっと宿泊できる家に巡り会えて、その温かい部屋に落ち着いてから、詠んだものではないだろうかと書いた。
ようやく温かい部屋で安堵して、先ほどまでの、まだ宿が見つからない夕暮れの孤独感を詠ったものではないかと思ったのだった。
それは以前から、そう思っていた。
たいていの人は孤独感よりも安堵感を好むものだから、私は蕪村の安堵感に触れたくて、そう思い込むことに決めたのかも知れない。
宿泊場所のない焦燥感
寒い冬の夕暮れ、次第にあたりが暗くなり、家々に火影が灯る時刻になってもまだ今夜の宿泊場所を確保出来ないでいる。蕪村は、焦燥感と孤独感を感じつつ宿を探しながらこの句を詠んだのでは、という思いも、実はある。
蕪村が宿泊をお願いしても、承諾しない家がずうっとつづいている。
そういう切羽詰まった寂しい光景が思い浮かぶ。
それは家並みの混み合った町のような場所ではなく、家の疎らな山村であったかも知れない。
まだ夏場なら、宿無しでも野宿して過ごせるが、厳寒の夜の野宿は、そのまま行き倒れにつながる可能性が濃い。
蕪村の焦りが、「宿かさぬ」という第二人称の意志の非情さを垣間見せた表現になっているとも思える。
あるいは、こんな私のような者には宿を貸してくれない、という哀愁のようにも思える。
焦燥感と感動
哀愁と同時に、夕暮れの雪景色に感動している蕪村もいる。夕暮れに火影がつづく美しい冬景色。
すっぽりと白く雪に覆われた家の窓に、暖かそうな灯が見える。
その火影の色合いが、妙に美しい。
夕暮れに染まる空と、その空の下の小さな家々。
人の暮らしと雪景色の絶妙なバランス。
もう夜が来るのに、寒さから逃れる場所が見つからない焦燥感。
そんな焦燥感をいっとき忘れるほどの、冬の美しい夕景色であったのかもしれない。
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