雑談散歩

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日々の生活の中に埋もれているブログのコンテンツ

パソコン
パソコンでインターネット。
「コンテンツ」とは、内容や中身を意味する言葉である。
私たちが日ごろ接しているテレビや新聞の記事は、その「コンテンツ」の質で評価されることが多い。
(1)新鮮で、面白いコンテンツか。
(2)有益で、多くの人々の役に立つコンテンツか。
しかし、既存のメディアである新聞の記事やテレビの番組のことを「コンテンツ」とはあまり言わないようでもある。

ところで、「コンテンツ」を「情報」という言葉で置換えても良いのでは、と思えてくる。
だが、ブログでは、写真という情報と、テキストという情報とが組み合わされて、ひとつの「コンテンツ」を形作っていることが多い。
それに動画や音声やグラフの情報が加わったり。
こうしてみると、いろいろな情報の集合体が、ひとつのテーマやタイトルを持った「コンテンツ」として成り立っているようだ。
「コンテンツ」とは一様な情報の結合体のような気がする。
と、書いてはみたが、やはり「コンテンツ」という言葉にはあいまいな部分が多い。

入れ子構造

「コンテンツ」はインターネット上で普及した言葉だ。
「コンテンツ イズ キング」という文句はインターネットの王道として伝聞されている。
インターネットの中身は、「コンテンツ」である。
と言えば、インターネットの世界は、ロシアのマトリョーシカ人形みたいに「コンテンツ」の「入れ子構造」のように見える。
様々な情報の集合体としての「入れ子構造」。
情報の中身を開けてみれば、そこにはまた別の中身が控えており、その繰り返しが延々と続く。
私たちは日々の暮らしの中で、これに似た「入れ子構造」を感じることがある。
日々の生活の中身は、様々な日々の生活で満ちているから。

共有する

ネット社会では「共有する」という有り様が重要視される。
どのぐらい多くの人々に共感されるかが、そのコンテンツの評価につながるのだ。
現実の日常生活は私たちの共感で下支えされている。
世間体という、ある種の基準も共感の一部であるかも知れない。
私たちの抱えている喜怒哀楽に一定の共感が伴わなければ、日常のコミュニケーションは機能しないだろう。
喜怒哀楽の共感は、情報の共有を促す。
共有するのに価値がある情報は、インターネットのコンテンツとしても重要視されることになる。

しかし、ブログのコンテンツが、一見して共有するのに価値のある情報ばかりでは、日常の様々な断面は見えてこない。
価値のある情報とは何か、という疑問の「入れ子構造 」があるからだ。
もしかしたら、人々が共有できる部分は、現実社会のほんの上辺だけに過ぎないのかもしれない。
いわば有益だと言われている情報の侵略から、無益な疑問の生活を守っているのが日常であるとも言える。

社会にとって有益なことが、そのまま個人にとって有益なこととはならない。
インターネット上の有益な情報が、個人にとって有益なコンテンツになり得るとは限らないのだ。
実際、何が有益であるかは、突き詰めてみると判然としない。
たとえば、「インフルエンザの予防接種は、社会をインフルエンザウィルスの脅威から守る。」という情報が普及している。
が、一方では「接種後の副反応症の発生は個人の健康の脅威になっている。」という情報も普及しているのだ。
また、「自然にインフルエンザに感染したほうが、ワクチンとは比べ物にならないほどの強い抗体が作られる。(母里啓子氏著: インフルエンザワクチンはいらない)」というような意見もある。
社会的に有益だと言われていることに対する価値判断は個人によって様々である。

考え方

私たちは日々の生活のなかで、「真実の情報とは何か」と考えながら生きている。
その根拠を探りながら生きている。
絶えず「嘘か真か」を問いながら生活している私たちは、延々と続く「嘘か真か」の「入れ子構造」の住人となるかもしれない。
その個人の生活において、考え方の糸口や、方法は様々だ。
私たちはインターネットの世界で、有益な結論の共有も望むが、同時に、多種多様な考え方の共有も切望している。
そこから掴み取れる「生活の方法」のヒントが、私たちの「考え方」を潤してくれるのだ。
自身の日々の生活は、テレビドラマを見るようには見る事が出来ない。
私たちは、日々の出来事や心に感じた事を書き記し、それを読み返すことで、自身の日常の一端を知る事が出来るかもしれない。
そのとき私たちは自身の「考え方」に 改めて気づく。
そういう「考え方」の共有がブログの目的のひとつではあるまいか。
ひとつの結論の共有では無く、固有の生活における多種多様な考え方や生活の実感の共有。
私たちはひとつのマトリョーシカだけを見たいのではなく、その中に潜む何体ものマトリョーシカを見たいのだ。

知恵と工夫と疑問

ありふれた日常のドラマに潜む劇中劇の仕掛けや工夫や疑問。
日々の生活の中に埋もれているブログのコンテンツとは、そういう仕掛けや工夫や疑問のことだろう。
その中身を共有することで、私たちは「嘘か真か、嘘の中の真か、真の中の嘘か」という世界の住民として、日々の暮らしを生きて行く事ができる。
結局、インターネットで価値のある情報(コンテンツ)とは、「わからない、わからない」とつぶやきながら考える事を止めない庶民の、日常の知恵や工夫や疑問かも知れない。

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