2015/04/08

蕪村の内省と芭蕉の発散

草地に春の雨

春雨やもの書(かか)ぬ身のあはれなる
与謝蕪村

蕪村62歳頃の句だとされている。

私が、この句と対応しているように感じる芭蕉の句に「不精さや掻き起されし春の雨」というのがある。
春の雨には催眠作用があるのか、うとうとと寝入ってしまった芭蕉の姿が思い浮かぶ。

それとも、昼日中、不精にも寝入ってしまったところを春の雨に、掻き起されたというイメージか。
「掻き起されし」とは「抱き起こされた」というような意味。

春の雨に抱き起こさたというイメージの方が面白い。

「天と地」という空間的な視点でこの句を読むと、以下のようなイメージになる。

地上で不精に惰眠をむさぼっていたら、いつのまにか、天から落ちてくる清浄な雨に抱き起こされてしまった。
春の雨は、天からのインスピレーションなのか、春の雨とともに「閃めき」が降ってきた。
というイメージの方が、芭蕉の空間感覚が感じられて面白い。

蕪村も春雨に「インスピレーション」を感じたのか、芭蕉の句とイメージが重なるように思われる。

「春雨やもの書ぬ身のあはれなる」の「あはれなる」には色々な意味がある。
  1. 趣深く感じる。
  2. すばらしい。
  3. 身につまされて悲しい。
  4. 心引かれる。
  5. 気の毒だ。
  6. いとしい
  7. 尊く、ありがたい。
「あはれなる」の意味の取り方で、この句のイメージが、だいぶ変わってくる。
私は蕪村が、(3)の意味で、この「あはれなる」という言葉を使っているのでは、と思っている。
そのイメージはこうだ。

せっかくインスピレーションのような春雨が降っているのに、それに触発されて、何もものを書こうとしない己自身が悲しい。
自身を情けなく思っている内省の句のようである。
自身の不精さを嘆いているのかもしれない。

春雨に煙る川原

芭蕉も、同じ状況にあると想定してみる。
でも、芭蕉は、自身の不精さを反省しない。

居眠りをしていたら、「春の雨」というインスピレーションに抱き起こされてしまったよ、と独り台詞。
芭蕉のモノローグは、内省と言うよりも「発散」に近い。

広い空間の中へ自己を言い放っている。
旅をすることで自己実現を図ってきた芭蕉は、悔いることよりも進むことを選んでいるのかもしれない。

では、蕪村の句と芭蕉の句のどこがどう重なるのか。
「春雨やもの書ぬ身のあはれなる」と「不精さや掻き起されし春の雨」。

春雨や」(蕪村)と「春の雨」(芭蕉)。
「もの書ぬ身」(蕪村)と「不精さや」(芭蕉)。
「あはれなる」(蕪村)と「掻き起こされし」(芭蕉)。

「あはれなる」という蕪村の「内省」の言葉に対応するのは、「掻き起こされし」という覚醒の空間に放たれた「発散」の言葉。
似たような状況下での、蕪村の内省と芭蕉の発散。

蕪村は、内省することで、己の領域を広げていく。
芭蕉は発散することで、己の領域を広げていく。

なにやら、イメージ的に対応していませんか?
もっともこれは、私の空想に過ぎないのだが。

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