2015/04/16

なぜか「日常」というイメージの、ヒメオドリコソウ

小さな花が咲きかけているヒメオドリコソウ。
いつの間にか、ヒメオドリコソウの群れがあちこちに。
花が開いているのもあるが、写真の場所のヒメオドリコソウは、まだこれから。
ヒメオドリコソウが石積みの隙間から生えてくる理由は、以前記事にしたことがある。
とても戦略的な、この草の生き方。

ところで、この草を見ていると、なぜか「日常」というイメージが思い浮かぶ。

「日常」とは、日々繰り返される出来事や毎日の習慣が、常に続いている状態を表わす言葉。
また、そういう日々の暮らしを維持するための方法や考え方をも表わしていると思う。

「日常」を「普段」という言葉に言い換えてみる。
「普段、そんなことは、しないよ」と、通常でない動作や行いを指摘することによって、普段の生活を維持しようとする。
「日常」は、まったく「日常」の積み重ねによって支えられている。

私は、「日常」について、そんな漠然としたイメージを抱いている。
それが、どうしてヒメオドリコソウのイメージにつながるのか。
それは万人に共通なものなのか、それとも特殊な発想か。

ヒメオドリコソウが「日常」をイメージさせる理由について考えてみた。
  1. 身近なシソ科の野草。
  2. 華やかさは無く、どちらかと言うと普段着の花である。
  3. よく見かける、平凡で、ありふれた草花。
  4. 群生している姿は単体の繰り返しをイメージさせ、繰り返しは「日常」をイメージさせる。
  5. 草の姿が穏やかな印象で、その穏やかさが「日常」に通ずるものがある。
などなど、列挙してみれば、ヒメオドリコソウはなんとなく「日常」的である。
それは、万人に共通した発想のように思われる。

もしそれが、特殊な発想なら、ヒメオドリコソウは「日常」というイメージにつながらない。
特殊な発想は、「非日常的」である。

ところが、万人は「非日常的」な事柄に興味を示す。
「日常」という安全な場所にいて、「非日常」を覗き見るのが好きである。
サスペンスやホラー映画が人気を得ているのは、そのせいなのだ。

となれば、安全な場所にいて刺激を求めている状態が「日常」ということになりはしないか。

多くの人々は特殊な発想に興味を示すが、身近に特殊な発想をする人物がいれば、それを嫌う。
そういう有様も、「日常的」である。

と言う、この堂々巡りな話は、ヒメオドリコソウに似ている。

ヒメオドリコソウの群落は、一様にたたずんで、一様に堂々巡りしている。
行きつ戻りつを繰り返しているように見える。
それが、「日常」というイメージにつながるのかも知れない。
シソ科の植物だから、葉がシソにそっくり。
石の灰色と、葉の緑がよく似合う。
花もかわいいが葉もかわいい。
ヒメオドリコソウの葉のシワシワに癒される。

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