2015/08/22

俳諧がいつのまにか格言になる

実るほど頭(こうべ)を垂(た)れる稲穂かな
詠み人知らず。
もしこれが俳句として作られたなら、目の前に収穫の時期を迎えつつある黄金色の稲田が見えるような句である。

ここ何年も不作が続いた。
もう稲穂がたわわに実った姿など忘れてしまった。
それが、今年は、幾年ぶりかの豊作の兆し。
この句には、そういう喜びと希望が感じられる、という点で、十分俳句として成り立っていると思う。
目の前に広がる「実りの秋」を、喜びの気持ちを込めて素直に「句」にしたものと受け取れる。

正岡子規は、俳句や短歌の創作において、事物や出来事をあるがままに書くことを唱えたという。
この句は、そんな姿勢で貫かれているように思える。

一方この「言葉」は有名な格言にもなっている。
もともと格言として作られたものなのか。
それとも、自然描写の「俳句」だったものが、いつのまにか格言として流行したのか。

ネットの「故事ことわざ辞典」によると、その注釈は、「稲が実を熟すほど穂が垂れ下がるように、人間も学問や徳が深まるにつれ謙虚になり、小人物ほど尊大に振る舞うものだということ。」となっている。

私が中学生だったころ、国語の時間に、教師からこの「言葉」の意味を問われたことがあった。
私の頭の中では、ただただ黄金色の田園風景が広がるばかりだった。
「重力の法則ですか。」とポツリと言ったら、クラス中が大笑い。

稲穂は謙虚であるから頭を垂れるのであろうか。
稲の果実が熟成すると、その重さのために茎が湾曲する。
その姿が、頭を垂れているように見える。
そこから、「偉くなっても威張るものではない」という戒めのような格言のようなものが生まれた。

「実るほど頭を垂れる稲穂かな」
この句が、「写生」に徹して作られたものであるから、こういう格言が育ったのかもしれない。
自然から学ぶことが人間の習性であるから。

この俳句とこの格言。
この二通りの「解釈」に共通するものは、希望である。
豊作が続いてほしいという希望。
偉い人(指導的立場の者)ほど謙虚であってほしいという希望。

希望は裏切られがち。

「実るほど頭を垂れる稲穂かな」
この句は、時を経るとともに作者の手を離れ、自然を写生するとともに人間社会をも写生している。

しかし、格言としての注釈を加えれば、教育的過ぎて、何か面白味に欠ける。
この句を格言として解釈することは、「想像力の放棄」のような気がする。

松尾芭蕉の「物言えば唇寒し秋の風」とか、芭蕉の弟子である宝井其角の「あの声で蜥蜴(とかげ)食らうか時鳥(ほととぎす)」とか。
俳句がいつのまにか格言になっている。
というか、いつのまにか格言にしてしまっている。

有名な句に、ある種の価値観をもたせる。
そうすると、知れ渡った句であるだけに、その価値観は「常識」と呼ばれるものになって世間に広がる。
独創性(オリジナリティー)の喪失。
私たちは、自身の考えよりも「常識」に頼りがちだ。

クワバラクワバラ、尻馬に乗らないようにしなくては。

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