2016/07/10

皿鉢もほのかに闇の宵涼み

晩年の芭蕉は、暮らしを題材にして、そのなかから新しい抒情を見出そうとした一面があるのでは、と私は思っている。
その表現は、平易であっさりとしているが、奥行きが深い。

皿鉢(さらばち)もほのかに闇の宵涼み

夕食に用いた皿や鉢が、片付けられることもなくそのままになっていて、それが宵闇のなかへ消えかかっている情景が詠まれている。
元禄7年、芭蕉51歳のときの作。
芭蕉は、この年の秋に病没している。

暑い夏の夜だったのだろう。
芭蕉は庭に出て涼んでいたのか。
風もなく空は雲に覆われていて、蒸し暑い宵闇があたりをすっぽりと包んでいる。
縁側越しに見える家の中は、明かりを灯していないので一段と暗い。
その闇の底で、陶質の皿や鉢がうっすらと白く感じられる。

夕方の明るいうちに食事をし、気怠るさのため、後片付けもしなかった。
その食器が、暗い中で独特の存在感を放っている。
芭蕉は、その存在感を面白いと思った。
暮らしのなかで、ハッと驚いてしまう存在感。
その存在感が醸し出している抒情。

私は以前、雑誌の写真で、スペインの画家スルバランの食器を描いた静物画を見たことがあった。
その静かで落ち着いた雰囲気は、見る人を魅了するのに充分だった。
そして、描かれていたカップや壷は、なにか物言いたげな存在感を放っていると感じたものだった。
この絵の写真を見たときのことを思い出すと、掲句に対するイメージが幾分違ってくる。

皿や鉢は、夕食後に洗われて、再び膳の上に置かれたものではないだろうか。
何のために?
宵闇を通して眺めるために、芭蕉がそうしたのではなかろうか。

芭蕉は庭に出て宵涼みをしながら、目を凝らして畳の上に広がっている闇の底を眺めた。
そこには、皿も鉢も整然と膳の上に並んでいて、彼らは彼らで独自の時間を過ごしている。
生活臭が染み込んでいるような食器は、ときどき別の顔を見せる。
別の存在になる。

お互いにちょっと距離をおいて、お互いの宵涼みを眺めている。
芭蕉は、皿や鉢の存在感にそういう思いを抱いた。
「ほのかに闇の」と描かれた家の中の空気が、そう思わせたのかもしれない。

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