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2016/08/21

縄文時代の土器や土偶に描かれた「物語(文学)」についての雑感

朝、まだ起きたての、ぼんやりとしか見えない目をこすりながらインターネットで調べものをしていたら、「国際縄文学協会」というサイトを見つけた。
私は、このとき目に飛び込んできた「縄文学」という文字に対して奇異な感じを抱いた。
「なわぶんがく」って何だろう?と。
「なわ(縄)文学」なんていう「文学」ってあったっけ?と。

寝ぼけていた頭が、しだいに通常にもどる。
ああなんだ「縄文学」って「じょうもんがく」のことかと気づく。
でも、「なわ(縄)文学」という錯誤も面白い。
縄文土器や土偶の表面についている模様が、何かを伝えるために描かれたものなら、それは縄目文様で描かれた「なわ(縄)文学」と言えなくも無い。
通常にもどった寝ぼけ頭が、そう考えだした。

縄文土器や土偶に描かれた縄目文様が、文字や記号のように、何かを伝えるための表現であったと推察することは可能である。
その表現が、「なわ(縄)文学」なのではと、私は錯誤から得たアイデアを楽しんでいる。
最も原初的な「文学」は口伝(口承文芸)であると言われている。
たとえばアイヌ民族の口承文芸であるユーカラ(ユカラ)は、原初的な「文学」の名残であるのかもしれない。

文学と言っても、詩、小説、戯曲、エッセイなどなど多岐にわたる。
現代のように、エンターテイメント性の強いものから、哲学的なものまでさまざまである。
では、土器や土偶に描かれた「なわ(縄)文学」とはどういうものなのか。
それは、アイヌ民族のユーカラ(ユカラ)のように、叙事詩的なものであったのではないかと私は空想している。
叙事詩とは、その民族の神話や歴史、英雄的な人物の物語のこと。
神話や歴史や英雄譚は、時間的な軸に沿って語られる。

ところで、時間の概念が、はっきりしていない時代ではどうだろうか。
時とか日とか暦とかの概念が無い世界。
時の過ぎるのを、物質の変化としてだけとらえていた世界ではどうだろうか。
そういう世界での「文学」は、算数的な時間の概念を持った世界とは違う文脈を持っているのではないだろうか。

口伝では表現できない「文学」の世界。
それが「なわ(縄)文学」。
それが、土器や土偶に描かれた縄目模様の内容なのでは。
土器とは、そのような「物語」を入れる器でもあったのかもしれない。
土偶とは、そのような「物語」を体現している偶像であったのかもしれない。

「物語(文学)」は、現代の私達にとっても強い影響力を持っている。
それは、生き方や考え方、現在や未来に対して暗示的でもある。
物質文明に囲まれて暮らしている私たちが、縄文時代に生きた人々の感性を受け継いでいるとしたらと考えてみる。
それは、一万五千年前から続き、二千三百年前から現代に受け継がれてきた「物語(文学)」に影響されているということではないだろうか。
ということは、縄文時代の土器や土偶が現存しているように、縄文時代の「物語(文学)」である「なわ(縄)文学」も現存していると言えるのでは。

さて、「なわ(縄)文学」とはいかなるものであろうか。
それは錯誤のトリックなのか、現実の土器や土偶から読み取れるものなのか。
素人の空想は、とりとめもなく広がる。

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