2016/10/15

凡兆の不満?「ほととぎす何もなき野の門ン構」

「猿蓑(さるみの) 巻之二」は宝井其角(たからいきかく)から始まって河合曾良(かわいそら)まで、12人の俳諧師の「ほととぎす」を題材にした句が、最初に掲載されている。
そのなかに、凡兆の次の句も収められている。

ほととぎす何(なに)もなき野の門ン構(がまえ)
野沢凡兆

私は、この句を読んだとき、荒涼としたイメージが頭に思い浮かんだ。
妙に寂しい光景。
廃墟のセンチメンタリズム。

ホトトギスは異様に甲高い声で鳴くときがある。
暗くなりかけの宵などに聞くと、あまり気分の良いものでは無い。
ちょっとびっくりするのだ。
またホトトギスは、早朝のまだ暗いうちに、けたたましく鳴いたりする。

夕暮に京都の街はずれを歩いていた凡兆は、「ほととぎす」が突然甲高い音で鳴き出したのを聞いてびっくりした。
辺りを見回すと、今は広い野原のようになってしまった屋敷跡が目に入った。
道は、野に沿って続いている。
その道の先に、立派な門が、いくぶん損壊しながらも建っていた。
このぐらいの門構えだと、さぞ立派なお屋敷があったことだろうと凡兆は、今は何もない野を眺めながら感慨にふける。

何もない野原なのに、立派な門だけが建っているのも虚しいものだ。
と感じていたのかもしれない。
人が消えて、建物がなくなっても、「ほととぎす」の鳴き声は変わらない。
「ほととぎす」は毎年夏になると、ここへやってきて鳴き声をたてる。
人にとっては廃墟の野だが、「ほととぎす」にとってはここへやってくる意味のある場所なのだ。
ひょっとしたら、さっき鳴いた「ほととぎす」は、この門をねぐらにしているのかもしれない。
というのが、「何もなき野」を屋敷跡と想定した私のイメージである。

しかし「何もなき野の門ン構」とは、「唐突」な印象である。
平易で叙景的な句が多い凡兆にしては、何やらひねくれている。
これはどうしてなのだろう。
「ほととぎす」は古来より和歌や俳諧の題材となることが多い。
掲句にある「ほととぎす」は鳥のことでは無いのでは。
凡兆は、俳諧を象徴的に示す言葉として「ほととぎす」としたのではあるまいか。
そして「門ン構」は蕉門を示しているのかも。
こう考えると、「何もなき野」とは、不毛の広がりのように思えてくる。

野沢凡兆が蕉門から離反したのは、いつ頃だろうか。
「野沢凡兆の生涯 著:登芳久」によると、元禄6年9月「俳風弓」が刊行された頃。
さらに、同年11月「曠野(あらの)後集」が発刊された頃。
凡兆は、これらの芭蕉に対して批判的な句集に参加しているので、この頃から徐々に蕉門離反の意志を強めたのではないかとされている。

掲句は、凡兆と向井去来(むかいきょらい)が編集した発句・連句集「猿蓑」に収められている。
「猿蓑」は元禄4年7月の刊。
「猿蓑」刊行の後、同門の俳諧師「八十村路通(やそむらろつう)」との「もめ事」で、凡兆と芭蕉の交流は疎遠になりつつあったという説もある。
「猿蓑」には凡兆の句「下京や雪つむ上の夜の雨」も掲載されている。
この句については、向井去来(むかいきょらい)の「去来抄(きょらいしょう)」に、芭蕉の指導に不満そうな凡兆の姿が描かれている。
去来の観察が正しければ、凡兆は「猿蓑」編集中に、芭蕉に対して不服を抱き出していたのかもしれない。
そういうところから、「猿蓑」に採用された掲句「ほととぎす何もなき野の門ン構」が、蕉門に対して批判的なイメージを含んでいたと私は感じている。
掲句が、凡兆にしてはあまりにも「唐突」だという印象を持った私の考えすぎかもしれないが。

いずれにしても、凡兆が芭蕉の元を去ったのは周知のことである。

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