2016/10/16

清楚な日常の美しさ「渡り懸て藻の花のぞく流哉」

これも私の好きな句である。
「渡り懸て」という行為のなかで「藻の花」を垣間見た凡兆の感動が見える。

(わた)り懸(かけ)て藻の花のぞく流哉
野沢凡兆

「藻の花」に、私はバイカモを思い浮かべた。
漢字で書くと「梅花藻」。
北八甲田では「グダリ沼」のバイカモが、その美しさで知られているが、私はまだ見たことが無い。
しかし、清流に揺れるバイカモの花は、どこかで見た記憶がある。
凡兆は、清流に架かった橋を渡りかけたとき、川面に揺れる藻の花に気がついたのだろう。
無数に咲いているその花の可憐さに、思わず水面を覗き込んだというシーンが思い浮かぶ。

水の流れに引きこまれたり浮き上がったり。
その様子をじっと眺めている凡兆。
一見ありふれた光景だが、そのありふれた光景の美しさにハッと驚いた人を、凡兆は句の中に描いたのだ。

桜や梅の花が俳諧の題材として取り上げられることは多い。
だが凡兆は足元の「藻の花」に目を向けた。
掲句のシーンは、芭蕉の句「よく見ればナズナ花咲く垣根かな」を思わせる。
この句は、貞享3年春の作。
上五の「よく見れば」に、私は、説明的であり演技的であるような印象を抱いたのだった。
この句に比して、凡兆の「渡りかけて・・・・・」は、ごく自然な動作を経て発見した「驚き」の句である。
「よく見れば」という動作には作為的な意図が感じられる。
「渡りかけて」という体の動きは、心の動きと繋がっていて、「藻の花」の発見に至る流れのなかにある。
仮に芭蕉を「技巧派」と呼べば、凡兆は「自然派」という言い方が合っているように思う。

「ナズナ」も「藻の花」も野草の類。
見る人によっては雑草として片付けてしまう類である。
芭蕉は、その「ナズナ」をもっとよく見ろと言う。
「ナズナ」のなかにある、桜や梅の花に勝るとも劣らない美しさを、もっとよく見ろと言っているようである。

凡兆は、そんな「プロパガンダ」を行わない。
日常のなにげない光景から受けた感動を、そのまま句にしている。
読者がその感動を素直に共有できる形で。
それだけに、読者がその句から感じる印象は鮮明である。
清らかな流れのなかで揺れ動く水草の可憐な花。
水流と草の緑と花の色。
見ていて見飽きない光景が、ささやかな日常に潤いをもたせている。

日常をよく見ることで、日常を越えた何かを探し出そうとした芭蕉。
日常を渡りかけて、見過ごしてしまいがちな日常の何かを見つけ出そうとした凡兆。

私は、凡兆の「藻の花」の句と、芭蕉の「ナズナ」の句に接して、こんな一面もあったのかもしれないと感じた次第である。

※参考までに

野沢凡兆の「藻」と「流れ」を題材としたものに「蜻蛉の藻に日を暮す流れかな」という句もあります。

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