2016/11/26

景色のなかの「もの」に接近する「水鳥や嵐の浪のままに寝る」

見た景色を、そのまま句にする。
いつも目にしている日常ではあるが、それを句に切り取ると、普段では見えなかったものが見えてくる。
なんてことが、あるだろうか。

いくら句に詠んだところで、見えている景色は普段と同じなのでは、と思える。
ただ、この嵐の景色を句にすることで、「水鳥」との距離が縮まる。
普段、なにげなく見ていた「水鳥」を注意深く見るようになる、ということはあるだろう。
その結果、普段よりも俳諧師の思いが「水鳥」に接近する。
見た景色を、そのまま句に詠む凡兆は、景色のなかの「もの」に接近しようとしているのだろう。
ものごとは、近づいて見れば、よく見えることもある。
遠くからでも、思いを近づければ、よく見えることもある。

水鳥や嵐の浪のままに寝る
野沢凡兆

和歌の世界では、鴨が水の上で眠ることを「鴨の浮き寝」と名付けて、歌に詠んだ。
鴨は、陸上でも水上でも寝るらしい。
陸上で寝る鴨よりも、水上の鴨の方が風雅なイメージがある。
まして「浮き寝」を「憂き寝」に掛けて恋の歌を作ってしまう和歌の世界ではなおさらである。

嵐の日に、水鳥が水上で寝ている。
季節は冬。
「水鳥」は、冬の季語である。
風の影響で、浪が激しく揺れ動いているのに、水鳥は浪と一体となっているように寝ている。
凡兆のこの句には、そういう景色がそのまま詠まれている。

水鳥は、嵐に負けることなく悠然と眠っているという格言的な俳諧になりそうな句である。
だが凡兆には、そんな気は微塵もない、おそらく。
ただ単に、目の前の光景を句に詠んでいる。

句を作りながら、ちょっと水鳥の気持ちを考えたりしている。
嵐の吹き荒れるなか、人間は水面の水鳥の姿に驚くかもしれないが、水鳥にとってはこれが日常なのだ、と思ったり。
むしろ、「浪のままに」しているのが水鳥の生き方なのだ。
嵐に抗うことなく、嵐から逃げることなく、嵐に身をまかせて水に浮かんでいる。
そんなこんなで、いろいろ考えているうちに、水鳥に接近しようとしている自身に気づく。
生き物としての水鳥に畏怖の念を抱いたり。

凡兆は、自然の生き物に事寄せて、自身の心情を語っているのではあるまい、おそらく。
自然と向き合い、作為の無い素朴な俳諧を作っている。
そうすることで、より率直に「もの」に触れようとしている。
作為というベールがあれば、「ほんとう」の姿は見えない。
それが、景色のなかの「もの」に接近する凡兆の姿勢ではないだろうか。

凡兆は「浪のままに寝る」水鳥の姿に、自然に従う生き方を見たのだろう。
そこにしか生きる場所がない水鳥であれば、嵐の日でも、浪とともに、浪の通りに、浪にまかせて眠るしかない。
むしろ、そのような技術を身につけているのが水鳥なのだ。
いつのまにか、凡兆そっちのけで、私の「水鳥」に対する思いが尽きない。

句によって提示された水鳥のイメージで、句を読む者は、いろいろな思いを巡らす。
波間に思いを揺らす。
凡兆俳諧の魅力のひとつである。

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