雑談散歩

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句のリズム作り「たがために夜るも世話やくほととぎす」

共有しうる観念世界との対話

江戸時代の俳諧のイメージに、どっぷりとひたりたくなるときがたまにある。
趣向が違っても、こういう傾向は多くの人々にあるのではないだろうか。
人は、その人特有の想いの世界を持っている。
そして多くの人が、日々の暮らしのなかで自身の想いにひたって過ごすことは、ときとしてあるのだ。
好きな音楽を聞いたり、詩や小説や漫画を読んだり、映画や芝居を見たり。
そういう創作文化と触れ合うなかで、人はその人固有の想いと対話しているのだと思う。
自身と共有しうる観念世界との対話。
その対話が、感想という形で文章になる。
感想は、その人固有の観念世界の表れであるのかもしれない。

野沢凡兆の俳諧についての感想文を書き続けることによって、しだいに私は、凡兆の観念世界の、その片鱗でも共有しようとする試みを楽しむようになった。
多くの人にとって、愛読書を読むということは、そういうことなのだろう。

古文書のくずし字


たがために夜るも世話やくほととぎす
野沢凡兆

元禄4年発刊の「猿蓑」以後の凡兆の句。
掲句は、元禄5年の鶴屋句空編俳諧集「柞原(ははそはら)集上巻」に収録されている。
「柞原集」は石川県立図書館ホームページ>貴重資料ギャラリー>月明文庫にて、当時の出版物を閲覧できる。
インターネットの便利さと、石川県立図書館の粋な計らいを痛感している。
しかし、残念ながら古文書のくずし字はまったく読み難い。

活字になっている凡兆の句と照らし合わせて、どうにか読める程度。
このくずし字の句が、ほんとうにこの活字の句なのかと問われれば、素人の私には、そうだと言い切る自信はない。

ホトトギスの鳴き声

それは、さておき。
ホトトギスは夜でも鳴くことがあると言われている。
それが同一個体であるかどうかは不明だが、夜中から明け方まで鳴くこともあるという。
深夜に「トッキョキョカキョク、トッキョキョカキョク・・・・・・・・」というけたたましい鳴き声。
そういうホトトギスの鳴き声を聞いた凡兆が、あきれてつぶやいたような句である。
まったく夜遅くまでやかましく鳴いて、いったい誰の世話をやいているんだい。
というようなイメージ。

また、江戸時代では、ホトトギスはこの世とあの世を行き来する鳥であると言われていたらしい。
やがて亡くなる人のために、あるいはすでに亡くなった人のために、ホトトギスはこんなに夜遅くまで働いて世話をやいているのかという詠嘆を含んだイメージも思い浮かぶ。

前者のイメージにしても後者のイメージにしても、どちらも凡兆の主観が強く出ている。
ホトトギスの鳴き声に感嘆しながらも、苛立ちを感じているような。
凡兆の印象鮮明な叙景句が好きな私は、掲句のような句を読むと違和感を覚えてしまう。
見えにくいイメージは、近寄り難い観念世界を思わせる。

俳諧のリズム作り

前回の記事の句同様に、この句でも「ほととぎす」が登場している。
「ほととぎす」は5文字なので、俳諧のリズム(調子)を作るうえで使いやすいのではなかろうか。
しかも、「ほととぎす」は「と」の音がふたつ連続するので、リズムがいい。
おまけに「ほとと」の連続する「o」の母音が軽快な調子を出している。
掲句では、「たがため」の「た」の音も韻を踏んで続いている。
「たがため」と「ほととぎす」は、リズムを作り出す効果になっているように思う。
それに加えて、「夜る」と「やく」と「ほととぎす」は、語の末尾が「ru」、「ku」、「su」と、全て「u」の母音である。
これも、句のリズム作りに役立っていると思う。

「ほととぎす」が登場する凡兆の別の句のリズム

そういえば、「枝に居てなくや柞のほととぎす」においても、「柞(ははそ)」の「はは」と「ほととぎす」の「とと」が、リズミカルである。
そして、「なく」と「ほととぎす」は、語の末尾が「u」の母音。
「柞(ははそ)のほととぎす」では、「そのほとと」と「o」の母音が5文字連なって、メロディのように続いている。

「ほととぎす何もなき野の門ン構」にもリズム作りの仕掛けのようなものが見える。
「何も」と「なき」の頭韻。
「何も」の「も」と「門」の「も」の同音の繰り返し。
「野の」では「の」の繰り返し。
そして、「ほとと」と、「何も」の「も」と、「野の門ン構」の「ののも」は全て「o」の母音。
「門ン構」の「ン」は撥音で、句の調子に強弱をつけている。
こういう仕掛けが働いてか、「ほととぎす何も・・・」の句は、非常にリズム感のある句になっている。

もうひとつ、「京はみな山の中也時鳥」の「みな」の「な」と「中也」の「な」がふたつ。
これも、「時鳥」の「とと」と呼応して調子を整える役割を果たしていると思う。
さらに、「京は」と「みな」と「山」と「中」は、語の末尾が全て「a」の母音となっている。

俳諧の五七五のリズムをさらにリズミカルにしようと、凡兆は「ほととぎす」という語を用いたのかもしれない。
「同音の繰り返し」や「同母音の繰り返し」という音の構成が、吟詠に値する俳諧を作り出しているように思う。

ふたつのパターン

凡兆の印象鮮明な句には、ふたつのパターンがあると私は感じている。
  1. 鮮やかなイメージを思い浮かばせる句。
  2. 句の調子がリズミカルで、十七文字がスーッと頭に入る句。
たとえば、秀句と言われている「市中は物のにほいや夏の月」は、上記の両方を持っている句であると思う。
夕暮れの京都の庶民街とそれを照らしている月。
そんな光景が、鮮やかにイメージできる。
それと、もうひとつ。
「市中」の「な」と「夏」の「な」とが韻を踏んでいて調子がいい。
「物の」と「夏の」も「の」の音のリズムが、この句を印象深いものにしていると思われる。
そして、「夏」の「つ」と「月」に「つ」で韻を踏む。
「市中は・・・」の句は、上記(1)と(2)の要素をあわせもっている句であると私は感じている。

「たがために・・・」の「ほととぎす」の句は?

とここまで書いてきて、掲句「たがために夜るも世話やくほととぎす」は上記パターンの(2)にあてはまると思うのだが、そのわりに句の響きが心地よくない。
やはり、凡兆が「ほととぎす」の鳴き声に苛立ちを感じて作った句であるからだろうか。
これも、私の推測に過ぎないような気がするのだが・・・。
なんとなく冴えない句だというのが、私の率直な感想である。

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