雑談散歩

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日本人はなぜ桜の花が好きなのか

青空の下、満開の桜。
「花は好きですか?」と問われれば、大部分の日本人は「好きよ。」とか「嫌いではないね。」とか言うに違いない。
花は、日常生活の様々な場面で好んで飾られるものだから。

では、数ある花のなかで、特別桜が好まれるのはなぜなのだろう。
これにはいろいろな意見があるらしいが、私は桜の花が平凡であるからだと思っている。

小枝を覆い隠す桜の花びら。
日本のほとんどの場所で、その時期になれば桜の花が咲く。
川端の桜。
市街地の桜並木。
都市公園の桜。
学校の庭の桜。
ショッピングセンターの駐車場脇に植えられた桜。
住宅の庭にも桜。
お寺の境内の桜。
まったく桜ほどありきたりで平凡な花は無い。
桜の花の美しさは、平凡というオーラで包まれているように見える。
その平凡さを愛されているが故に桜の木が増え。
桜の木が増えると、桜を見る庶民の楽しみが増え、平凡な生活の尊さを実感することになる。

満開に咲き誇っている桜のボリュウム感には圧倒されるが、ひとつひとつの花は単純で清楚。
小さな子どもでも絵に描けるほど覚えやすい形をしている。
桜は、子どもの頃から慣れ親しんでいる花なのである。

そんな桜の花を、平凡な生活の尊さの象徴であると私は思っている。
平凡を絵に描いたような風景のひとつに、桜の花が咲き誇っている風景がある。
日本人は、とりわけ日本庶民は、安泰で平凡な暮らしを好む。
そして、平凡な暮らしの尊さの象徴である桜に親しみを覚えるのだ。
日本人が、桜を好むのはそういう訳ではあるまいか。

インターネットで「日本人はなぜ桜の花が好きなのか」で検索してみると、いくつかの共通した「解答」が得られる。
  1. パッと咲いてパッと散る様が見事。
  2. 短命で儚いのが愛おしい。
  3. 待ち焦がれた春の到来を象徴する花だから好まれる。
上記が、その主な「解答」。

清く慎ましいイメージ。
桜の花が平凡であるから日本人は桜が好きなんだという意見は、広いインターネットのどこにも見当たらない。
桜の花を日本民族の精神の象徴のようにとらえている方々からすれば、桜の花が平凡だなんて噴飯ものかもしれない。
また、咲いたらすぐに潔く散る桜の花は、武士道精神の象徴のようなものとも言われている。
激しい精神論を掲げる方々からすれば、平凡な世界などつまらないものに見えることだろう。
だが、「日本人イコール武士道」とはならない。

上記の「解答」のなかで(1)と(2)は精神論を連想させる。
かろうじて(3)が、ほのぼのとした愛着感につながるのではなかろうか。
それが平凡な庶民感情であると思う。
穏やかで平凡な春の訪れ。
そんな春を好む心が、桜を好むのだろう。

お花見などのイベントで日本人の生活に慣れ親しんでいる桜の花。
人々は、桜の花に様々な思い出を持っている。
「さまざまのこと思い出す桜かな」という松尾芭蕉の句は、現代人の心にも響いている。
平易な句であるからこそ、平凡な感情と桜の花のつながりがよくわかる。
「劇」を好む芭蕉にしては、穏やかな句となっている。

芭蕉が敬愛した西行の方がむしろ劇的で、平凡さを退けている。
「願わくば花の下にて春死なむその如月の望月の頃(西行法師)」
人口に膾炙しているこの歌を、人々は劇的なシーンとして眺めることはしても、自身の人生の「劇」とはしないだろう。
多くの人は、「さまざまのこと思い出す桜かな」と平凡な生活を顧みつつ、桜の花を称賛するのではあるまいか。

そして、野沢凡兆の美しい句「はなちるや伽藍の樞おとし行」は、僧侶の平凡な繰り返しの中に桜の花を配している。
平凡であるが故の花の美しさの一面を描いていると思う。

咲いたら散るのを待つばかり。
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