「涼しい夏の過ごし方」というコピーは変か?
看板のタイトル用に「涼しい夏の過ごし方」というコピーを考えた。
それは、納涼用品のセールの看板だったのだが、しばらくしてから「ちょっと変かな?」と思うようになった。
変なようで、変でない。
その微妙な感じが誤解を与えやすい。
私は「涼しい/夏の過ごし方」という区切り方を想定してこの文句を考えた。
これは、「涼しいと感じる夏の過ごし方」の「と感じる」を省略した文句。
看板のタイトルが「涼しいと感じる夏の過ごし方」では、ちょっとくどい。
それに、限られたスペースに長い文句を埋め込むと、文字が小さくなって、タイトルとしての訴求力に欠けてくる。
タイトルは端的で目につきやすいものがイイという私の考えから「涼しい夏の過ごし方」としたのだった。
そう区切られると、まったく違うオハナシになってしまう。
「涼しい夏」は、これを読む者に冷夏をイメージさせる。
猛暑で体調を崩す方は多いが、同様に冷夏で体調を崩す方もいらっしゃるのだ。
「涼しい夏の/過ごし方」では、納涼用品セールではなく、冷夏対策用品セールと受け取られてしまいかねない。
端的な表現でという考えで作ったタイトルなのだが、ちっとも端的でなくなっている。
スマートでおしゃれなタイトルと思ったのは、作り手の独りよがり。
読む側の理解を悩ましては、看板のタイトルとして失格である。
こんなとき、看板に扇風機のイラストでも描けば、一目瞭然。
イラストは、読む側の理解を助ける。
扇風機のイラストがあれば、タイトルは自動的に「涼しい/夏の過ごし方」と読まれるはず。
でも、誤解が生じやすいタイトルであることに変わりはない。
ちょっと考えてみた。
その原因は「省略」ではないだろうか。
日常のコミュニケーションでも、「省略」は誤解の元、トラブルの元。
「省略」には、そこを省いて言っても相手は解ってくれるはずという「憶測」がつきまとう。
「省略」の裏に「憶測」有りだ。
ヒアリならぬオクソクアリが徘徊している。
そして日本語は、日本人の「省略歓迎文化」に支えられている。
「主語」の省略は日常茶飯事。
このブログの文章だって、「私は」とか「私が」とかの「主語」が随分欠けている。
省略の文芸である俳諧の伝統も、「省略歓迎文化」に寄与している。
多くを語らない方が、その分、イメージが広がる。
説明では伝わらない心情の機微が、省略することによって、より伝わりやすいのだという憶測。
コミュニケーションは社会的だが、憶測は超個人的。
その超個人的な憶測が、日本語を美しくし、わかりにくくしているのかもしれない。
というのは、私の憶測。
そういうことは、言わぬが花さ。
それはともかく、ハナシをもどそう。
どうして「涼しい夏の過ごし方」というコピーがわかりにくいのか。
その原因がようやくわかった。
それは、肝心なことを省略しているからではなく、省略の仕方が中途半端だからである。
そこで、思いっきり省略して、「夏を涼しく」というタイトルにした。
これなら端的である。
セールの内容が、看板を見るものにストレートに伝わる。
それは、納涼用品のセールの看板だったのだが、しばらくしてから「ちょっと変かな?」と思うようになった。
変なようで、変でない。
その微妙な感じが誤解を与えやすい。
どこで区切るか
読む側が、この文句をどこで区切って読むかによって、この言葉の意味がまるで違ってくる。私は「涼しい/夏の過ごし方」という区切り方を想定してこの文句を考えた。
これは、「涼しいと感じる夏の過ごし方」の「と感じる」を省略した文句。
看板のタイトルが「涼しいと感じる夏の過ごし方」では、ちょっとくどい。
それに、限られたスペースに長い文句を埋め込むと、文字が小さくなって、タイトルとしての訴求力に欠けてくる。
タイトルは端的で目につきやすいものがイイという私の考えから「涼しい夏の過ごし方」としたのだった。
読む側の理解
これを「涼しい夏の/過ごし方」と区切って読む人も少なからずいらっしゃるかもしれない。そう区切られると、まったく違うオハナシになってしまう。
「涼しい夏」は、これを読む者に冷夏をイメージさせる。
猛暑で体調を崩す方は多いが、同様に冷夏で体調を崩す方もいらっしゃるのだ。
「涼しい夏の/過ごし方」では、納涼用品セールではなく、冷夏対策用品セールと受け取られてしまいかねない。
端的な表現でという考えで作ったタイトルなのだが、ちっとも端的でなくなっている。
スマートでおしゃれなタイトルと思ったのは、作り手の独りよがり。
読む側の理解を悩ましては、看板のタイトルとして失格である。
こんなとき、看板に扇風機のイラストでも描けば、一目瞭然。
イラストは、読む側の理解を助ける。
扇風機のイラストがあれば、タイトルは自動的に「涼しい/夏の過ごし方」と読まれるはず。
でも、誤解が生じやすいタイトルであることに変わりはない。
省略について
どうして「涼しい夏の過ごし方」が誤解されやすいのだろう?ちょっと考えてみた。
その原因は「省略」ではないだろうか。
日常のコミュニケーションでも、「省略」は誤解の元、トラブルの元。
「省略」には、そこを省いて言っても相手は解ってくれるはずという「憶測」がつきまとう。
「省略」の裏に「憶測」有りだ。
ヒアリならぬオクソクアリが徘徊している。
そして日本語は、日本人の「省略歓迎文化」に支えられている。
「主語」の省略は日常茶飯事。
このブログの文章だって、「私は」とか「私が」とかの「主語」が随分欠けている。
省略の文芸である俳諧の伝統も、「省略歓迎文化」に寄与している。
多くを語らない方が、その分、イメージが広がる。
説明では伝わらない心情の機微が、省略することによって、より伝わりやすいのだという憶測。
コミュニケーションは社会的だが、憶測は超個人的。
その超個人的な憶測が、日本語を美しくし、わかりにくくしているのかもしれない。
というのは、私の憶測。
そういうことは、言わぬが花さ。
それはともかく、ハナシをもどそう。
どうして「涼しい夏の過ごし方」というコピーがわかりにくいのか。
その原因がようやくわかった。
それは、肝心なことを省略しているからではなく、省略の仕方が中途半端だからである。
そこで、思いっきり省略して、「夏を涼しく」というタイトルにした。
これなら端的である。
セールの内容が、看板を見るものにストレートに伝わる。