2017/09/10

四つ五器のそろはぬ花見心哉

「五器」というのは、正確には「御器」と書いて、蓋付きの食器のこととインターネットの「goo国語辞書」にある。
「御器」には 修行僧などが食物を乞うために持つお椀という意味もあるとか。

四つ五器のそろはぬ花見心哉
松尾芭蕉

「五器」のことを全く知らなかった私は、掲句を下記のように読んでいた。

「よついつつ うつわのそろはぬ はなみこころかな」

こう読んで、たまには芭蕉も字余りの句を詠んだのだろうと思っていた。
「よついつつ うつわ・・・」と「つ」の音が続いていて、数え歌のようで調子が良い。
芭蕉には、「五つ六つ茶の子にならぶ囲炉裏哉」という句がある。
掲句も、このノリなのだろうと思った。

歌川広重「上野東叡山境内」(国立国会図書館デジタルコレクション)。
掲句は、前回の花見の句同様、元禄七年三月二日の作とされている。
「上野の花見にまかりしに、人々幕打ちさわぎ、物の音・小歌の声さまざまなりける傍らの松陰を頼みて」
と、句の前書きにある。
当時の花見の名所である上野の、賑やかな様子が目に見えるようである。

芭蕉一行(依水ら四、五人)はのんびり上野に出かけたのだろう。
上野・東叡山寛永寺の境内のめぼしい場所は、すでに先客で占められていて、芭蕉らは桜の木の下に宴席をつくることが出来なかった。
上図のように、東叡山寛永寺の境内には、松の木も多く植えられていたようだ。
その松の根元に敷物を敷いた芭蕉一行。

歌川広重二代、歌川国貞「東叡山花さかり」(国立国会図書館デジタルコレクション)。
以下は私の空想である。
芭蕉は、この花見に大いに不満だったのではあるまいか。
  1. 桜の下の場所がとれなかった。
  2. 花見弁当が、周囲と比べてかなり貧弱である。
  3. 参加メンバーに色気が無く、総じて野暮ったい。
そういう状況で、この句が作られた。
「よついつつ うつわのそろはぬ はなみこころかな」。
「よついつつ」というのは「花見弁当・酒の肴」を入れた器のことであり、同時に「依水ら四、五人」の参加メンバーのことではないだろうか。
「はなみこころ」とは、花見の席での句会のこと。
そしてそろっていないのは、「うつわ」のことであり、参加メンバーのことであり、「はなみこころ」のことであり、芭蕉自身が作ったこの句の「字数」のことと私は感じた。

芭蕉の心中を察すると、以下のようになるのでは。
まったく、今日の花見はなってない。
貧弱な弁当、貧相なメンバー、松の根がゴロゴロして座り心地の悪い場所。
依水が連れてきたこの面々は、あたりをキョロキョロしてばかり。
あそこの花見のお重はすごいとか、あっちの酒は旨そうだとか、あそこにいい女がいるぞとか。
この体たらくでは句会も満足にできやしない。
まったく、何から何までそろっていない花見になってしまった。
という芭蕉の不満や苛立ちを、私は感じたのだった。

ところが、「芭蕉年譜大成(著:今榮藏)には以下のようにある。
「四つ五器(ごき)のそろはぬ花見心(ごころ)哉」
上記のように「読み仮名」が付いている。
ということは掲句を以下のように読みなさいということなのだろう。
「よつごきの そろはぬはなみ ごころかな」
なるほど、これで字数は合っている。
前回も芭蕉句の「読み間違い」のことを記事にしたが、この句も私の読み間違いなのか?

それは、さておき。
周囲の宴席の花見弁当と比べると、まったく貧しい器と料理ではあるが、花を見る心はそんなに貧しくはないよという「解釈」が一般的なようである。
御馳走をならべて浮かれるよりも質素な花見のほうが心がこもっているのだという格言的な意味合いの「解釈」であるような。

だが芭蕉は浮かれ騒ぎをしたかったのではないだろうか。
江戸の花見の名所(観光地)である上野の寛永寺まで来たのは、賑やかな場所でどんちゃん騒ぎをしながら句を詠みたかったのではあるまいか。
私はそう感じている。
もし、俗世間から離れた風雅な花見を望んでいたなら、隅田川河岸にひっそりと咲いている堤桜の根元に静かな席を設けたのではないだろうか。

花見の町人達と一緒に、浮かれ騒いで楽しい句を詠みたかった芭蕉。
掲句を読むと、以前記事にした野沢凡兆の句が思い浮かぶ。
風雅を求めて山里の桜見物に出かけた凡兆の句「鶏の声もきこゆる山さくら」
凡兆は、この桜見物で質素に暮らす山里の人々と出会ったに違いない。
そして、「鶏の声も」聞こえる山桜に感動し満足したことだろう。
山里での凡兆の満足、上野の大舞台での芭蕉の「不満?」。
と、こういう風に比べてみると、何やら面白い。

一立斎広重「上野東叡山全図」(国立国会図書館デジタルコレクション)。
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