2017/09/16

奈良七重七堂伽藍八重ざくら

芭蕉の句とは、いろんなところで出会う。
まるで、それが決まってでもいるかのように、いろんなところで出会うことになっているのが芭蕉の句である。
こうも私たちの日常に「浸透」しているってことは、私たちの意識のなかにも「浸透」しているってことかもしれない。
多くの人々の頭の片隅では、ときおり「古池や蛙飛び込む水の音」がポチャリと音をたてているのだ。
「物言えば唇寒し秋の風」が寂しい心に吹いている。

こんなに日本人に親しまれている芭蕉であるからか、芭蕉の「ニセ句」や「存疑句」が出回ったりする。
有名なのは「松島やああ松島や松島や」という江戸時代のキャッチコピーのような句。
それがいつのまにか芭蕉の句となって、近年の松島では、堂々と看板に明記されていたこともあったという。

二十年ぐらい前に読んだ本を本棚の奥から取り出して、ところどころ拾い読みしていたら、ここでも芭蕉の句に出会った。
芭蕉の句に、西では、
 七重八重七堂伽藍八重桜
があり、また東では、
 花の雲鐘は上野か浅草か
がある。奈良のサクラは、今のナラヤエザクラに品種的に限定されるかどうかはわからないが、現在のサトザクラのなかの八重ザクラであることは間違いない。江戸の句のサクラはヤマザクラかエドヒガンか、それともシダレザクラかはっきりしないが、江戸初期の叙景とあっては、ソメイヨシノでないことだけは確かである。                            ※「植物学のおもしろさ」著:本田正次(朝日選書366)
ここを読んだという私の記憶は、悲しいことに、きれいさっぱり失くなっている。
であるから、今回この本での芭蕉との出会いは、私の再発見のようなもの。
やはり、「花の雲鐘は上野か浅草か」の句を作った時、芭蕉が思い描いたのはソメイヨシノではなかったのだ。
もっとも、ソメイヨシノはエドヒガン系である。
葉よりも先に花が咲くのも、ソメイヨシノと同じ。
芭蕉が見た花がエドヒガンであったなら、ソメイヨシノのような花の賑わいであったかもしれない。

「奈良七重七堂伽藍八重桜」という句は、漢字だらけで、おまけに名詞だらけ。
名詞の羅列。
いったいこれはなんだろう、と思ってしまった。
動詞が無いと、句としての躍動感に欠ける。

例によって、「芭蕉年譜大成(著:今榮藏)」で調べると、巻末の「作年次未詳発句拾遺(没後刊行俳諧集所収)」のページに記載されてあった。

奈良七重七堂伽藍八重ざくら
松尾芭蕉

元禄十一年十一月刊行の伊藤風国編「泊船集」に載っているとのこと。
「早稲田大学図書館ホームページ>古典籍総合データベース>泊船集. 巻之1-6」(PDF書類33枚目)で原典の画像を調べると、芭蕉の句として載っているように見える。
「愛知県立大学図書館貴重書コレクション>古俳書トップページ>泊船集>各冊表紙一覧>1>0032」でも同じものを見ることができる。
後者の方が保存状態も良く、掲示の仕方も整っていて見やすい。

しかし、くずし字(草書)で書かれた原典は、私には解読不能。
「国立国会図書館デジタルコレクション」に、明治四十二年八月「すみや書店」より刊行された「芭蕉泊船集」があったので、これを参照した。

左側の小さな字が、句の前書き。(国立国会図書館デジタルコレクションより)。

右側に説明書きの続きと句。(国立国会図書館デジタルコレクション)。
上図の「奈良七重七堂伽藍八重さくら」という句の右側に「前書き」が添えられてある。
活字で印刷された文章なのだが、私にはところどころ判読不明だった。
不明瞭ながら、以下に抜粋してみると。
「其角か曰、かねは上野は浅草かと聞こえし前の年の春吟也。尤病起の眺望成へし一聯二句の格也。句を呼て句とす。」(句読点はブログ管理人が加えました。
この活字体が正確に原典の草書を写しているかどうかは、私には不明である。
だが私の印象では、この「前書き」は芭蕉自身の「句の前書き」ではないように思える。
これは、「泊船集」の編者が付けた「前書き」なのではあるまいか。
「宝井其角が言うには云々」というところが、この句についての其角の説明のように思われるからだ。

「其角が言うには、(この句は)鐘が上野からか浅草からか聞こえた(そういう句を詠んだ)去年の春に吟じた句である。そうではあるが病気で眺望していたために、(句会には参加できずに)一連二句を流儀として作った(ここまでが其角の話)。(風国は)この句を名付けて(芭蕉の)句とする。」

などと、しどろもどろに私なりに訳してみたが・・・・・。
この意訳が、正解であろうはずもないのだろうが、万が一合っているとすれば、「奈良七重・・・」は、「花の雲鐘は・・・・」と同時に作られた句ということになるのではあるまいか。
そしてそれを宝井其角が前の年(貞享四年)のものだと伊東風国に告げたのなら、宝井其角と伊藤風国は元禄元年に「奈良七重・・・」の句について話を交わしたことになる。
その話の内容を、伊東風国は「覚書」として残した。
元禄十一年には、その「覚書」がそのまま句の「前書き」の位置に置かれて「泊船集」が発刊された。

というのが私の空想である。
そして、次に述べることも私の空想。

芭蕉は深川の芭蕉庵で病のために臥せっていた。
この花の時期に病とは、いまいましい。
春の風邪か、単なる腹痛か。
そう思いながらうつらうつらしていた芭蕉の耳に、北の方角から鐘の音が聞こえた。
その鐘の音が、花の名所の風景を芭蕉に思い浮かばせた。
まるで鐘の音が芭蕉の脳裏に花の雲を現出させたように。
ああと溜息をついて、芭蕉はつぶやくように句を詠んだ。

花の雲 鐘は上野か 浅草か

芭蕉は、上野や浅草の花を思い浮かべ、やがてその思いは奈良の吉野山に飛んだ。
芭蕉が敬慕する西行が歌に詠んだ吉野山の桜。
七重八重と幾重にも連なる吉野の山々。
山頂から山すそへ、波のように押し寄せる桜の花。
また奈良は名刹・古寺の多い土地。
花と寺が折り重なって七重にも八重にもなる。
吉野山と奈良の古寺と桜。

奈良七重
七堂伽藍
八重さくら

と、芭蕉は五・七・五のメモを残した。
そのメモを芭蕉庵で見つけた伊東風国が、訳知りの宝井其角の話を聞き、これをそのまま芭蕉の句とした。
「句を呼て句とす。」
その句の前に、自身の「覚書」を句の「前書き」として添えたのではないだろうか。

「吉野山梢の花を見し日より心は身にも添はずなりにき」という歌を詠んで、吉野山の桜に心を奪われた西行。
そんな西行を思いながら、奈良にかかわる言葉を淡々と紙の上に置いた芭蕉を空想した次第。

芭蕉は「花の雲鐘は・・・・」の句を詠んだ翌年(元禄元年)、「笈の小文」の旅の途上、杜国(万菊丸)と奈良吉野山で花見をしている
芭蕉は深川で病の床にふしながら、この旅の予定まで夢見ていたのであろうか。

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