藤沢周平「帰って来た女」江戸の町人の様々な情愛
藤沢周平の短篇小説「帰って来た女」は、江戸の市井で暮らす人たちの、様々な情愛の物語である。
その情愛を引き裂く悪は、善良な町民とは鮮やかな対比を成して描かれている。
小説の冒頭では、職人と商人との駆け引きが描かれていて興味深い。
こつこつと仕事に励んでいた職人の親方は、ついに問屋から大量の取引を得る。
順風満帆、気分は秋の空の様に晴れ渡っていた。
その上等な気分に、暗雲が差し掛かる。
かつて親方の妹をたぶらかして行方をくらましていたごろつきが、彼の前に姿を現したのだ。
どういう魂胆からか、男は親方に、妹が重い病気で寝込んでいると知らせる。
兄の意見を聞かずに、ごろつきと一緒に失踪した妹の行く末は、見当がついていた。
男は、女を捨てて、女郎屋に売り飛ばしていた。
兄は、雇いの若い職人とともに、安女郎屋の暗い布団部屋に寝かされていた瀕死の妹を見つける。
その異臭漂う布団部屋や、路地に並ぶ娼家の様子が目に浮かぶように描かれている。
ここでも、作家の描写力に驚かされる。
江戸の表通りのにぎわいの裏には、このような世界が確かに息づいていたのだろう。
このような場所で病んだ妹を目の当たりにした兄の、その衝撃や痛みがひしひしと、読む者に伝わってくる。
この瀕死の妹が、小説の題名になっている「帰って来た女」である。
兄と一緒に妹を救い出した雇われ職人は、発話障害者(唖者)だが耳は聞こえていた。
妹とは幼馴染で、気持ちの通じ合う仲だった。
この職人の存在が、物語に救いを与えている。
物語の後半は、この雇われ職人が活躍して、再度、女を救う。
女の情愛が、職人の男を救う。
その顛末は、読んでのお楽しみである。
藤沢周平は、決して読者を退屈させない。
この小説には、家族愛や師弟愛など様々な情愛に支えられた江戸の町民が描かれている。
と同時に、それらを危ういものにするごろつきや悪所も描かれている。
藤沢周平は、その悪所で働かねばならない人々を、静かな筆致で描いている。
この小説でもまた「人間存在という一個の闇、矛盾のかたまりを手探り」しているように思える。
ただ、女性を食い物にするごろつきに対しては、他の作品同様に、その筆は鋭い。
※「赤文字部分」は、藤沢周平「帰省」所収の「雪のある風景」より引用