多島斗志之の短篇小説「低空飛行」|殺意はあったのか?
![]() |
| 【多島斗志之「低空飛行」】 |
多島斗志之の短篇小説「低空飛行」は、第二次世界大戦でナチスドイツの敗色が濃くなりつつある時期の、イタリアとドイツが物語の舞台となっている。
物語全体に戦時下の緊張感が漂っている。
そうした状況での、二人の登場人物の「出会い」から「対決」が描かれている。
その「対決」の結末は一瞬だった。
なかば「衝動的」に。
私の知る限り、「抑制」や「冷徹」が美学とされるハードボイルド小説に、感情の高まりからの「衝動的」な行動の描写はめずらしい。
突然の行動だから「発作的」と言うべきか。
しかし、「発作的」なら尚の事、「抑制」が効いていない。
この小説には、「信義」という言葉が2回出てくる。
それが、主人公の衝動の元となっているように描かれている。
もし「信義」が主人公の行動を左右しているとしたら、なんと道徳的なハードボイルドなのだろう。
小説とは、視点を変えて、いろいろな読み方を楽しむことができるものだと思っている。
私は、小説の題名である「低空飛行」という言葉が気になった。
すると、妙な疑問が湧いた。
主人公である戸田は、彼の知人の女性を死に追いやったベノッティを殺すつもりだったのかどうかという妙な疑問である。
この小説は、戸田がベノッティの殺害を目的として彼を飛行中の輸送機から突き落としたと読むのが一般的であろう。
小説の文脈では、殺害の動機は、人妻である同胞の女性を弄んで、自殺に追い込んだことに対する「怒り」ということになる。
「怒り」は頷けるものの、それが、殺人の動機とは短絡すぎると私には思えるのだ。
ハードボイルド小説としても、どこか物足りない。
この疑問が、私の「低空飛行」に対する読後感に、どこか割り切れないものを残している。
そう感じたとき、作者の仕掛けとして、もう一つの隠れた文脈が潜んでいるのではないかと思えてきた。
仮に、戸田はベノッティを殺すつもりはなかったとみると、この小説には、その仮説を成り立たせるいろいろな伏線が仕組まれているように感じた。
調べてみると、現在の「最低安全高度の基準(航空法施行規則第174条)」は、人や家屋がない地域では、地上150m以上と定められている。
意外と低い。
これを安全基準として参考にすると、以下のような推測が成り立つのではなかろうか。
彼らが搭乗している輸送機は、敵機の追撃を避けるために低空飛行を余儀なくされている。
戦時下の軍用機であるから、現在の基準よりも可能な限りの低空で飛行していたと思われる。
地上150mよりも低く、樹木の梢すれすれのわずかな高度で飛行することも十分考えられる。
燃料維持のために米袋を捨てた場所は、森林地帯の上空であったことが、戸田と操縦助手の以下の会話に描かれている。
「しかし、いくら低空で飛んでいても、20キロの米袋が地上の人間に当たれば、けがだけではすまないと思うが」しかも、季節は冬なので、アルプスの麓の森林には、たっぷりの積雪があることだろう。
「心配はいらん。下は一面の森だ」
次に戸田が乗っている飛行機は、鈍足で有名なドイツの主力輸送機「ユンカース52型機」であることが、文中に書かれている。
すると戸田は、積雪のある森林地帯の上空を、ギリギリの高度で低速飛行する飛行機から、ベノッティを突き落としたことになる。
もしベノッティが樹木の細枝でクッションを得、積もった雪の斜面に落ちたとすれば、その落下の衝撃は低いと推測できる。
とはいえ、落下したあとのベノッティの生き残る確率は、よほどの高運がないかぎり低い。
一方、戸田にとっては、確実に殺人を犯したという心の負担は、いくぶん軽減すると思われる。
戸田は、瞬時にベノッティの生存の可能性を念頭にして、怒りを爆発させたのかもしれない。
要領よく逃げ回っているイタリアのファシスト党の上級幹部であったベノッティは、豪雪の森の中で、生き延びることができたかどうか。
そういう微かな余韻を、作者は小説「低空飛行」に残したのではないだろうか。
※赤文字部分 有栖川有栖、北村薫、宮部みゆき 編『選んで、語って、読書会2』(創元推理文庫)収録 多島斗志之「低空飛行」からの引用
