あばら家に吹く不景気風
廃屋の窓。 |
不景気風が吹くようになってから、家を手放す人が多くなって「売家」が増えた。
その「売家」もなかなか買い手が付かず、年月が経つに従って「あばら家」化しているようだ、と友人が言ったのだった。
「あばら家」とは懐かしい匂いのする言葉だ。
私が子どもの頃暮らしていた田舎の村では、放置された住宅が「あばら家」と化していた。
それが、子ども達の格好の遊び場となった。
その「あばら家」の中の埃っぽくて湿った匂いが、「あばら家」という懐かしい言葉の響きに連れられて思い出された。
そう言えばこの頃、放置された住宅があちこちで目につくようになった。
「あばら家」の破れガラスの隙間を不景気風が通り抜けていく。
だが、「あばら家」という言葉には、暮らしの営みの温もりがあって、「廃屋」というイメージでは無い。
私たちが子どもの頃遊んだ場所は、「あばら家」ではなくて「廃屋」だったのだ。
「あばら家」は捨てられた「廃屋」ではなくて、隙間だらけでも暮らしの営みを被っている「家」なのだ。
ネットで調べてみると「あばらや」には、「荒家」と漢字があてがわれている。
「荒家」は、古くなって壊れかけた家というイメージだ。
「あばら家」と聞くと、「あばら骨」という言葉を連想する方も多いだろう。
「あばら骨」とは肋骨のことだ。
肋骨は、間隔をおいて配列された胸部の骨で、映画などで、動物の死骸が砂漠に放置されているシーンでは、まず目につく部位である。
大きな動物の骨だと、「あばら骨」の隙間を砂埃が吹き抜けていったりする。
「廃屋」のイメージは、白日の下に晒された死骸の「あばら骨」に近い。
「あばら家」の「あばら」は、「あばら骨」の「あばら」と関係がありそうだが、死に絶えたという印象は無い。
「あばら家」の中には元気な暮らしが息づいていて、起死回生の方法を模索している生活者の姿が感じられる。
しかし不景気風は、「あばら家」を「廃屋」に転落させようとして吹いているようだ。
この頃の政治の空疎感に、それを感じる。
まったく「あばら」な政府になってしまった。