間違った事実?

道路標識の見間違い
「間違った事実」という文言は、割と流通しているような気がする。
だが、「間違った事実」という言い方は正しいのか?
『それは「間違った事実」なのではないか?』という問いは、正しいのか?
などというように、世間の多くの人たちによって、常にそれは「正しいのか?」と問い詰められる。

間違いを注目する
正しい事を求めるのはなぜか。

それは、正しい事に、間違いは無いからだ。

と同時に、「間違った事実」が存在するとすれば、それは世間の多くの人々の注目の的となる。
「正しい事」に執着する人々は、「過ち」に対しても敏感になりがちなようである。
そして、過ち探しのパズルに快楽的にのめりこむ。

間違いという言葉は、真実と違う事とか誤りとかの意味を持っている。
過失とか過ち、事故とかも「間違い」という言い方で通る場合もある。
「若い男女が間違いを起こす」なんてことも良く聞くが、これは男女間の分別の無い情事のことのようである。
とすれば、そのような「間違い」は、若い男女間に起こりがちな「事実」と言えるかもしれない。

世間に間違いはあふれているが、「間違った事実」はどうだろう。
事実とは、平ったく言えば、実際に起こった事柄のこと。
多くの人々にとって意外ではあっても、それが実際に起こった事柄なら、「意外な事実」は存在する。
そして、その「意外な事実」の出現によって、今までの事実認識が誤っていたと判明すると、今まで事実だったことは「間違った事実」ということになるのだろう。
例えば古代ギリシャのプトレマイオスとかいう方が打ち出した「天動説」という過去の事実は「間違った事実」であったということになる。

身の安全か、快楽か
世間の多くの人たちは、なぜ「正しい事」を求めるのだろう。

それは「正しい事」は間違いなく身の安全を保障してくれるという信心があるから。

そして、自身の身の安全を再確認するために、世間の多くの人々は「間違った事実」に注目する。
「間違った事実」は事実よりもセンセーショナルであるかも知れない。
今となっては正しい地動説よりも、間違った天動説の方が、きらびやかな天体ショーを見せてくれるかもという期待感もあり得る。
科学的な正論で塗り固められているような現代。
それに反して、間違いをおかすことは、神秘的な古代を覗いてみたいという欲望の現れであるのかも知れない。
間違いをおかすことに快楽的なスリルを感じてしまう間違った衝動。

世間に「正しい事」はあふれている。
誰もが「正しい事」を言う。
世の中は「正しい事」で均らされて平坦に仕上がっている。

だが世の中には、平坦で単調な「正しい事」には飽き飽きしているという人たちもいることだろう。
「正しい事」なんか、どこにも無いさ。
そういう人たちは、「間違った事実」を待ち望んでいるのかも知れない。
パズルを解こうとするかのように。

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