芭蕉のトリック?「よく見れば薺花咲く垣根かな」
よく見れば薺(なずな)花咲く垣根かな
松尾芭蕉
貞享三年春、芭蕉四十三歳のときの発句。
この年の春に、芭蕉は「古池や蛙飛び込む水の音」という有名な句を詠んでいる。
さて「薺」の句。
この説明的な句にはトリックがある、と思うのは私だけだろうか。
ナズナは別名ペンペングサとも呼ばれていて、原っぱや道端など、いたるところに生えている野草である。
背の高さは20センチから40センチぐらい。
小さな白い花を多数、花穂に付ける。
花の下についているたくさんの果実は、まるで中空にたくさんの手を差し伸べているようなかっこう。
このように、じつによく見かける花なのである。
そしてナズナは、春の七草のひとつでもある。
野草にまったく興味の無い人々は、なるほど俳句とはモノをよく見て作るものなのだと納得する。
野草好きにとっては、不要な心配である。
野草好きでない人でも、ナズナやタンポポは知っているのではないだろうか。
それでも芭蕉は、知っているつもりでも「よく見ろ」と、あえて説いたのかも知れない。
よく見れば、このナズナの群生は、この屋敷の垣根になっているではないか。
春の時期だけ、この屋敷には垣根ができる。
さわさわと春風に揺れる垣根。
このナズナの垣根で囲まれた、しゃれた住処に住んでいるのは、よっぽどの粋人であろう。
松尾芭蕉
貞享三年春、芭蕉四十三歳のときの発句。
この年の春に、芭蕉は「古池や蛙飛び込む水の音」という有名な句を詠んでいる。
さて「薺」の句。
この説明的な句にはトリックがある、と思うのは私だけだろうか。
ナズナは目立たない花ではない
ナズナの花は、別によく見なくても、その存在に気がつく。ナズナは別名ペンペングサとも呼ばれていて、原っぱや道端など、いたるところに生えている野草である。
背の高さは20センチから40センチぐらい。
小さな白い花を多数、花穂に付ける。
次々に花を咲かせ、下の方で花が終わって種子が形成される間も、先端部では次々とつぼみをつくって開花していく。
その様子は、にぎやかで面白い。
その様子は、にぎやかで面白い。
花の下についているたくさんの果実は、まるで中空にたくさんの手を差し伸べているようなかっこう。
この果実の形が、三味線を弾く撥(バチ)に似ているからペンペングサと呼ばれているらしい。
ペンペンは三味線の擬音語。
ペンペンは三味線の擬音語。
ナズナの存在感
おなじみの慣用句に「ペンペングサも生えない」というのがある。
どこにでもあるペンペングサさえ無い、本当に何も無い場所というような意味で使われている。
このように、じつによく見かける花なのである。
そしてナズナは、春の七草のひとつでもある。
こんなに存在感のある花が、よく見なければその存在を確認できないということは無い。
架空の前提
芭蕉は「よく見れば」という「前の句(上句)」で、ナズナの存在感を消してしまうという手品を行っているのではないか?
ナズナは、目を見開いてよく見なければ気がつかない花だという架空の前提を準備し、それを共通の認識としてこの句を読む者に強制している。
野草にまったく興味の無い人々は、なるほど俳句とはモノをよく見て作るものなのだと納得する。
芭蕉は「周囲に有るモノをよく見て句を詠みなさい」という教えのために、このようなトリックを用いて、「よく見る」という姿勢を強調したのだろう。
野草好きにとっては、不要な心配である。
野草好きでない人でも、ナズナやタンポポは知っているのではないだろうか。
それでも芭蕉は、知っているつもりでも「よく見ろ」と、あえて説いたのかも知れない。
ナズナの垣根
ここで、もうひとつの私なりのイメージがある。
目の前のナズナの群生は、ただ漫然と生い茂っているように見える。
でも実際よく見ると、まるで垣根を形成しているように、ナズナの花が咲いている。
でも実際よく見ると、まるで垣根を形成しているように、ナズナの花が咲いている。
よく見れば、このナズナの群生は、この屋敷の垣根になっているではないか。
春の時期だけ、この屋敷には垣根ができる。
さわさわと春風に揺れる垣根。
このナズナの垣根で囲まれた、しゃれた住処に住んでいるのは、よっぽどの粋人であろう。
と、こうくれば、野草好き好みの句になる。
ナズナを垣根にしたことで空間が広がり、その奥にある家屋にまでイメージが広がる。
句を読むものを屋敷の内へと導く。
その家の住人の人柄を連想させる。
いずれにしても、芭蕉は、その句を読む者を「誘導」することが巧みであると思う。
それが芭蕉の句に仕掛けられたトリックによるものであると、私は感じている。
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読者を誘導するトリック
垣根を作っているようなナズナの群生を思い描くことで、この句を読む者のイメージが広がる。ナズナを垣根にしたことで空間が広がり、その奥にある家屋にまでイメージが広がる。
句を読むものを屋敷の内へと導く。
その家の住人の人柄を連想させる。
いずれにしても、芭蕉は、その句を読む者を「誘導」することが巧みであると思う。
それが芭蕉の句に仕掛けられたトリックによるものであると、私は感じている。
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