幻想の演劇覚書
「盲導犬」ポスター。 |
非日常とは、異様な日々の連続という面を持っている。
危うい非日常は、案外、平穏な日常のなかに潜んでいるのかもしれない。
演劇は、
そういう非日常を描いている。
観客は、
自身の日常から解放されて、
演劇の舞台に、刺激的な非日常の世界を求める。
セリフやストーリーに、私たちの日々の暮らしは見えない。
ときに、不可解なセリフや脈絡の消えたストーリーに、私たちは戸惑う。
舞台の役者たちは、
幻想的なセリフに現実的な意味があるように、技巧的に演じる。
彼らは、
脈絡の途切れたストーリーを、観客の日常と関連づけようと、
私たちの日々の暮らしを手繰る。
人々は、舞台に自身の日常ではない世界を見て心を動かし、
幻想世界の演技者は、観客席の覚めた生活感を見ている。
あるいは、自らがもたらした刺激によって、
生活の苦労を忘れ、
新鮮な感覚に興奮気味な観客たちの日常を見ている。
双方向の視線をつないでいるのは、
セリフの言葉だ。
その言葉を、役者たちが 放ち、
観客が受けとめる。
放つ視線と、受けとめる視線。
役者の口から放たれた言葉は、
音となったり、意味となったりしながら、
非日常の言葉として、観客の記憶に残る。
例えば、唐十郎作の「盲導犬」。
「不服従」という言葉が、
犬のように、観客の脳裏を駆け回る。
「ファキィル」という音が、
「不服従」という 意味を咥えて街を走り回る。
観客は、
芝居が終わっても、宮沢りえ演じる「銀杏」の視線を、
ときどき、思い出したり。
あるいは、観客や役者たちが待ち望んでいたのは、
演劇終了後の カーテンコールだったのかもしれない。
あの役者たちの、深々としたお辞儀に、
観客は安堵を得て、胸の奥に深々とした余韻を蓄えて、帰路につく。
人々は幻想から解放されて、現実の世界に戻りながら、
「良いカーテンコールだったね・・・。」
などと、つぶやいたり。
カーテンコールは、人々を現実の世界に送り返す儀式。
こうして、
仕舞いまで芝居を見た観客たちは、余韻の波にゆらゆら揺れて、満足げだ。