老いと、雪と、あるがままに
高齢者の覚悟
晴れた暖かい日が続いて、冬が終わっていくことが実感できるこの頃。青森市内について言えば、今年の冬は雪が少なかった。
雪片付けの苦労が少なかったから、楽な冬だったという感想をあちこちで聞く。
確かに。
体力の無いお年寄りにとっては楽な冬だったに違いない。
しかし。
厳冬期の街中を見渡したとき、せっせと雪片付けをしているお年寄りも少なくなかった。
雪に対する恨み言や不平を並べるばかりで、体を動かさないという老人はあまりいなかったような気がする。
高齢者になると、あるがままの自然を受け入れるという覚悟のようなものが、育ってくるのかも知れない。
わがままだった人が、しだいに周囲に慣れ親しんでいくようになる。
それは、諦念(あきらめ)ではなく、人間の集団という自然の中で、理解力を深めるということなのだろう。
もちろん、すべての老人がそうだとは言えないが。
雪と戯れる。 |
未知の世界を受け入れる
人生が長いということは、自然とのつき合いが長いということ。青森のような雪国に限って言えば、雪とのつき合いが長いということ。
そういう時間の量から、日常の思考という質への転換がなされるのか。
物事の変化や発展のあり方を、わが身に沿って理解する方法が自然と身につくのかもしれない。
年をとるということは、その本人にとってみれば、未知の世界を進むことになる。
概して言えば、人生そのものが「未知との遭遇」の連続。
その未知の世界を、未知としてあるがままに受け入れる日常の生活態度。
思考方法。
人生の終焉に、そういうものを手に入れれば幸いであるかもしれない。
交通事故、病気、生活現場での事故、労働現場での事故、レジャーの事故。
そういう死の危険を乗り越えて、人は歳を重ねていく。
わがままからあるがままへと自己の在り方を変えていく。
それが自然であるのか、無いのか。
とは言っても。
あるがままって、本当のところ、何だろう?
恵まれた環境で暮らしている人はいいが、戦渦の最中で暮らさなければならない人や、事故が発生した原子力発電所のそばで生活している人にとって、あるがままに生きることは、しんどい。
そういう環境の中で、自身の存在の在り方を考えるのは難しい。
自身の気持ちのあるがままに生きれば良いとか。
自身の価値観のあるがままに生きれば良いとか。
自身の死生観のあるがままに・・・・・
など、など。
人間は樹木のように、固定された環境で、あるがままには生きられない。
そこで、このアイデアは、とりあえず、雪に限ったことだ。
雪国に暮らすうえで、雪との接触は避けられない。
生きている限り、死や老いも避けられない。
年齢が進むと、雪が老いのように人生に降りかかる。
63回目の冬が終わって、老化防止も、雪との闘いや戯れも、あるがままに、自然にまかせて、という境地の辺りをさまよっている。
思考方法。
人生の終焉に、そういうものを手に入れれば幸いであるかもしれない。
あるがままって?
高齢者に限らず、自然災害で生命を失う人々も少なくない。交通事故、病気、生活現場での事故、労働現場での事故、レジャーの事故。
そういう死の危険を乗り越えて、人は歳を重ねていく。
わがままからあるがままへと自己の在り方を変えていく。
それが自然であるのか、無いのか。
とは言っても。
あるがままって、本当のところ、何だろう?
恵まれた環境で暮らしている人はいいが、戦渦の最中で暮らさなければならない人や、事故が発生した原子力発電所のそばで生活している人にとって、あるがままに生きることは、しんどい。
そういう環境の中で、自身の存在の在り方を考えるのは難しい。
自身の気持ちのあるがままに生きれば良いとか。
自身の価値観のあるがままに生きれば良いとか。
自身の死生観のあるがままに・・・・・
など、など。
自然にまかせて
あるがままの困難さは、私の未熟な「頭」では計り知れない。人間は樹木のように、固定された環境で、あるがままには生きられない。
そこで、このアイデアは、とりあえず、雪に限ったことだ。
雪国に暮らすうえで、雪との接触は避けられない。
生きている限り、死や老いも避けられない。
年齢が進むと、雪が老いのように人生に降りかかる。
63回目の冬が終わって、老化防止も、雪との闘いや戯れも、あるがままに、自然にまかせて、という境地の辺りをさまよっている。